田山花袋 書 昭和4年

 中秋 「大魚ケキ躍」(たいぎょけきやく)ケキ(けき) とは肉がちぎれるほど激しく躍動する様を表した言葉で、麦という字に似ているが難しい、下の部分が石である。中国「荘子」の「養生主」篇の中の言葉である。 録とは花袋の号。

田山花袋 書 昭和4年 

中秋 「羽二重団子」(はぶたえだんご)病の床に臥せられたとの報を受け、当店4代目庄五郎が代々木のご自宅にお見舞いに伺ったところ、大変喜ばれて、上記と2枚を揮毫してくださった。昭和5年に花袋先生は亡くなられた。
 
芋坂も団子も月のゆかりかな」子規 短冊。子規直筆らしく書いてあるが、弟子「寒川鼠骨」が書いたもの。鼠骨さんは、子規の死後も子規庵を長く守ってきた人である。
 
 
 
 
上記 短冊の裏面。鼠骨記とある。鼠骨さんは、明治7年松山生まれ、子規を慕い新聞「日本」に入社した俳人。子規全集の編集に参画した。第二次大戦で消失した子規庵を再建したが、現在は財団法人「子規庵保存会」に管理されている。 
彰義隊士の残した小刀。慶應4年、戊辰戦争で敗走した彼らは、芋坂を駆け下り、当店に闖入。刀、槍を縁の下に投げ入れ、百姓の野良着に変装して、日光奥羽方面へ落ち延びた。
 
彰義隊士の残した槍。展示場奥の壁面に吊ってある。槍の穂先は、戦時中の鉄製品の供出によって無くなった。 
 
当店2代目妻「くま」画。江戸時代後期。菩提寺「長善寺」住職・書家画家の「金洞」筆。女傑・酒豪と伝えられる。傍らに杯が置いてあるのが見える。2代目庄五郎は養子。
帳場格子にかかった、帳簿類「懸取帳」「萬売上控簿」等。
 
2階へあがるはしご段。かなり急なものである。
 
当店で使っていた道具類。そろばん・鏡・蜀台等。戊辰戦争の時分の砲弾(不発弾)。
 
久保田万太郎 直筆。「芋坂の団子下げたる賀客かな」正月の風景である。
 
地券。 現在の登記制度が出来る以前の、個人の土地所有権を認めたもの。明治12年、当店4代目の頃である。
戦時国債。 15円と見えるが、紙くずとなった。
 
銭箱。 売り上げると銭をここへ放り込んだ。
 
江戸時代の贈答につけた絵びら。酒の角樽。火事場装束。等