6代目庄五郎トーク

第1回だんご寄席 昔話 根岸界隈

その昔「金曽木」後の「金杉」と云う地名が文中に表れましたのは、今より六〇〇年程前の応永六年であります。
また「根岸」と云う地名が初めて記録に残っておりますのは永禄二年(一五五九)注一今から四四〇年前の「小田原衆所領役帳」と云う古文書で、その中に

領主 太田源七郎
広沢(金曽木)内根岸
地行地 三〇貫文
領主 遠山弥太郎
新堀(日暮里)
地行地 四五貫文

それから二〇年程たちました天正の頃、(安土桃山時代)やっと「金曽木」と云う地名に代って「金杉」が出て参りますが。もう三〇年程たちますと徳川幕府が出来、幕府の天領となって代官支配地となりました。
やがて正保三年、三代将軍家光の頃、金杉村はお隣の新堀村と共に東叡山の所領となりました。現在の赤羽から以南、北区・荒川区・足立区の一部等メて一萬石のご朱印地を擁する寛永寺であります。因みに徳川家菩提寺の芝増上寺五千石・浅草の浅草寺五百石でありました。その折の地名は「金杉村字杉崎」が後年(上根岸)になり「金杉村字中村」が後年(中根岸)になり「金杉村字井戸田」が後年(下根岸)となりました。それから一〇七年たちました宝歴三年、九代将軍家重の時代「金杉村字杉崎の畑地四〇〇畝(延宝年間図に「入会」と記されておりますから「村の共有地」が御隠殿囲地(用地)となると云う記録があります。
今まで寛永寺の本坊(現・国立博物館位置)にお住まいになっていた法親王に京都からはるばるご下向になって、遠く異郷の地の陀びしさをお慰めする為に寛ぎの場としてのご隠宅が「ご隠殿」であります。それからは此のご隠殿からの歌声が上野の山まで洩れ聞こえ、鼓の音が入谷田圃まで届いたと申します。さてそれより六〇年経ちました文化六年、十一代家斉将軍の頃、姫路城主酒井雅楽頭の弟「酒井抱一」が金杉村字中村に「雨華庵」を建て
「元旦や朝寝起すや小田の鶴」と詠みました。何せ根岸より北の方を望めばただ莫々たる水田でありまして広重の錦絵にも見えますように鶴がしょっちゅう舞降りていたようであります。最も江戸城にも鶴が常に飛んでいたので江戸城の別名「舞鶴千年城」と云っておりました。従いまして昭和二十六年当時、東京で三代以上百年以上・名物老舗の証拠のある店が選ばれて(荒川区では羽二重団子」発会した「東都のれん会」の会章に江戸の象徴としての鶴が選ばれました。因みに日本航空も鶴、創価学会も鶴でありますがそのいわれはまだ聞いておりません。
さてその昔「根岸の里」のお隣は「日暮しの里」でありまして諏方台の眺望と花見寺の庭園美が極めて優れておりましたので、余りに眺めが良くいつ迄も眺めていたので知らぬ内に日が暮れてしまったと云う意味で「眺め飽きぬ間に日の暮れるるを忘る」と記録されております。主として文人墨客が好んで「日暮しの里」を詩文に現したと云われます。此の「日暮しの里」が地名として使われ初めたのは享保十三年八代将軍吉宗の頃でありまして、諏方神社の別当、浄光寺で「日暮里八景」さ選定した時に始ると云われます。従いましてこれと相対的に「根岸の里」の呼び名も、概ね比の時分ではないかと思われます。ご承知のように江戸は毎年火事がら火事の連続でありまして、明暦の大火と云われる彼の「振袖火事」は本郷丸山町の本妙寺から出火して焼死者実に十萬八千人これが明暦三年の一月八日のことで、四代将軍家綱の頃であります。東京大空襲と似たり寄ったりの被害者数でありますが人口の遥かに少ない三百年の昔の十万人は大した数字でしあります。余りの悲運に年号が変わりましたが翌、万治元年同じように一月十日これもおなじ本郷吉祥寺からのあの八百屋お七の火事では遠く新橋、霊岸島、鉄砲冊まで延焼する大火となりました。小さな火事は年がら年中、こんなことで日本橋を中心とする大店はセカンド、ハウスと云う意味を含めて此の別宅を、当時郊村でありました比の根岸に設けて寮と称し、お店が焼けると家族を先ず別宅へ移してその間にお店を復旧すると云う避災地としての「根岸の里」でもあったのであります。現に「駒形どぜう」の渡辺家は震災の時、今の京成電鉄高架が右にカーブする辺りに別宅をお持ちで、復興まであそこから中学へ習いましたとご先代から伺いました。

昔話 根岸界隈(其の二)
此のように根岸の里は町なかから遊離した郊村に相当するところから独特の「地域性」があったのでございます。次で「根岸の里」には古い歴史と風流のきこえのある「風土性」があるのであります。遠く荒川に向って開ける菜の花畑に舞い上るヒバリのサエズリ此んなのどかな田園に音無川の静流が加わると云う佳境でありまして剰さえ上野の山の北陰と云うことで山のかげにある処から陰徴な趣も多少はあるかも知れませんが、これが返って閑静な清伶さを生んで文人墨客の思考に大いに役立ち、一方に豪商の別宅もあったでありませうが又一面、世俗を避けて閑静な情緒を楽しむ風流人が「根岸の里の佗び住居」の表現と共に移り住んだ「根岸の里」なのであります。
此の「根岸の里」の別称に「呉竹の里」がありますが、竹は水を多く要求する植物でありますから山の雫をしたたか受ける此処「根岸」は山の麓の一線上に竹林があっても不思議はありません。また京都御所の仁寿殿前には呉竹が植えられていたので御隠殿に移られた宮様が京都を偲んで御座所の「月光殿」の前にも呉竹をお植えになり、その左に呉竹寮を設けられたと伝へられますので「根岸」の別称に「呉竹の里」が用いられたのも故なきことではありません。
明和九年、正しくは安永元年十代将軍家治の頃、目黒行大坂の大円寺からの出火で江戸の大半を焼く大火があったと云う記録の中で「根岸の宮様の御殿で火が止まった」とありますが、此の四千坪の用地を構えた御殿が呉竹と共に一きわ「根岸の里」に優雅な気風を流すと同時に此の時を以って江戸庶民に広く「御隠殿が贈炙したと申します。尚此の大火は御隠殿が造営されて二十年程たった時の大火でありまして、目黒から始まって巾一里長さ六里に及びましたから金杉、箕輪、小塚原、千住まで類焼したと記録にございます。
寛政十年十一代将軍家斉の頃、史実では「近藤重蔵」がエトロフ島へ行って標識を建てて来た年、此の頃、建部と云う人の書いた「折々草」の中の一節に、次のようなものがあります。「根岸と云う所は江戸の北東にあって町並をさけて山のしづくをしたたか受ける一地域でありますので、水も清く住宅地として大へん静かな所で、建仁寺の竹垣や柴で編んだ垣根を使って立派な門構えでなくとも風流な枝折戸を堂々と表入口にしている居住地であります。立春の二日目の日、友だちが在宅していると云うのでその辺りをせっせと歩いた。日和は大変のどかで高く群がって生えている木立には霧が立ち込めて、低地の川の岸べの柳は芽を吹き出し、鴬も高い音色で鳴いている。折れ曲って引込んだ道を遠く廻り道をして行くと、ごく普通の枝折戸だがその中の庭園には各種の草花が咲いていて、大変豊かに見える風流の家々が連なっている根岸の里を見た。」(昔風の文体を今様に書直す)
さて上野の戦さの折、以上のような閑雅幽水の境地であった「根岸の里」にもただ一ヶ所戦
火を蒙ったのは、公現法親王の御殿「御隠殿」だけでありました。既にして法親王は黒門口が陥ると同時に寛氷寺の高僧数名を隨えて逃避行に入っておりましたから御殿への放火は、専ら敗残彰義隊士の利用を防ぐ官軍の非常措置であったと思われます。斯くして根岸ご隠殿は焼かれましたが、その焼跡に立った石川兼六の書に「満園荒廃して草しげり恨望す風光の旧時に異るを 玉殿高門今見えず 古松影を交えて神詞を護る」とあります。やがて此の地に住宅も増え幸田露畔・岡倉天心・森田思軒・饗場篁村・川崎千虎・森鴎外など後年「根岸派」と云われる文人が、鉄道敷設に伴い幸田露伴は谷中へ、岡倉天心は蛍沢へ、森鴎外は只今の動物園の裏門近くに夫々転出いたしました。
明治十四年七月、芋坂の両側にあった私どもの畠にいきなりズカズカと測量隊が入って参りました。「何だねアンタ達は」ととがめると一言「お上だぞ」と一喝され私どもは皆震へ上ったと申します。つまり日本鉄道と云う会社の後ろに東京府と云うお上がついているので威張り散らしたのであります。やがて年内に山膚の傾斜地を平らにならし高崎線を敷いてしまいました。翌年の二月に入ると呼出しがあって全く一方的に「お前のところは幾らだぞ」と地所を買上げたと昔、年寄りがよくこぼしておりました。
此の当時「岡倉天心」は度々私どもの店へ見えて、当時焼だんごで一杯飲ませましたので、或時天心が大分酔って何処へ行ったか居なくなった後へ弟子達が先生を探しに来たけれども乗って来た馬だけが格子に継いであったと申します。また或時は乗って来た馬だけがたずながほどけで先に帰ってしまったと、後年、天心の弟さんが書いております。
ご承知のように明治二十二年五月一日より「市制町村制」府令第二五号の実施に当りまして音無川から南側の金杉村が下谷区に編入されましたので、元武州北豊島郡金杉村字杉崎が上根岸町に字中村が中根岸町、字井戸田が下根岸町と相成りました。此の時分、森田彰三郎と云う人が書いたものがあります。「その時分の根岸は愁海棠の生垣と建仁寺との連続で、菓子屋が一軒出来ても、そば屋が出来ても大評判で、根岸も便利になったと評判だった。それ程、不便な所であるが、たしかに閑寂な幽境で家並も風流であった」とこのように申しております。

昔話 根岸界隈(其の三)
明治二十二年五月に市町村制が施行されてから三年目に当る明治二十五年二月、正岡子規は駒込の追分から此処「根岸」へ移って参りました。東京の上野の北陰に位する東西に細長い此の地域が旧下谷区根岸町であります。此の地域は子規がやって参りました頃、「根岸田圃」に接属する「入谷田圃」「浅草田圃」が未だあり田圃風景が各所に残っておりました。そして子規は此の根岸の風土を五七五に乗せて文芸の形で残してくれたのであります。
爾来、その作品は根岸と云う永い歴史をもつ風流の地を理解するに最もふさわしい資料でありますので、次に子規の句の極く一部を採り上げて検証して参りたいと存じます。
「ふらふらと 行けば菜の花 はや見ゆる」子規庵を出て少々ゆけばもうそこは日暮里から三河島の田圃と高みにある畑で、菜の花が黄色く埋めつくしておりました。私のおふくろは日本橋の程近くで生れましたので子供の頃通っておりました紅葉川小学校の遠足には、谷中の高台まで歩いて来て一面の菜の花畑の向うに荒川の白帆の行き交う景色を眺めたと申しておりました。
「妻よりは妾の多し門涼み」余りそのものズバリで申し上げることがございません。ただ昔、古老が「根岸の里」に「半七」や「銭形」がどうして登場するのかを聞かせてくれたことがあります。その昔、日本橋を中心とする覇気多き人々が一と財産こさえると、しきりに二号さんを囲った時代がありました。初めは神明だ駒込大和村だと囲っておりましたがやがて、通うに大変だと気付きまして江戸の中心から見た上野の北陰こそ、隠すに良し通うに良しと流行を見たと云うのであります。それも市中にある黒板塀に見越の松なんてチャチな妾宅ではございませんで根岸の里には、大店のダンナの囲った呉竹の叢林や秋海棠の生垣の中にある瀟酒な妾宅なのであります。そこで凡そお妾には良い所のお嬢さんはおいでになりませんので此の身分卑しい者の弟や従弟などが市中で悪いことをやっては姉を頼り従兄を頼って逃げ込むこともあり、此の根岸の里にかくれている者の検挙率が極めて高かったので此処が舞台になったんだよ、と斯様な話を聞きました。
「白露の三河島村 灯ちらちら」
明治の初め浅草寺の裏門から新門辰五郎が遠見をした状景が何かにのっておりました。「入谷田圃の彼方、ただ莫莫たる水田で三河島村の灯がちらちら眺められた」とあります。従って子規の時代でも未だ若干郊村情緒がただ寄っていたことが分ります。
「春の水 出茶屋の前を流れけり」
此の茶屋と云うのは金杉に代々おりました「笹の雪」さんで、単に店の前を音無川が流れていると云うだけでなく、此の店をも風流のものとして名を流させる役目を果していると云う風に詠まれているのでしょう。
「芋坂の団子屋寝たり けふの月
芋と団子と月は三拍子揃っていなければならないのに肝心の団子屋が寝てしまって、むなしく名月が団子屋の屋根の上に光り注いでいると云う風な解釈が出来ますが、私は此の句を見る度に子規が自分で書いた最初の小説「月の都」を持って芋坂を通って谷中のギンナン横丁の「幸田露伴」を訪ねましたが仲々読んでくれないで両三日も通った苦労が偲ばれる一方、人の家を訪ねる時間はおのづと限度があり、その時分にもう団子屋が寝てしまったと解釈すると此の句を見る度に、私ども百年前も今日も早朝起きて団子の製造をしていると云う共通点を感慨深く見入るのでございます。尚私どもの店につきましては此のほか六句程書き残して頂きました。
「蓬莱や名士あつまる 上根岸」
上根岸には著名な文人や画家が多く住んでおりましたから、おのずから「床の間に飾る蓬莱」の季節、つまり正月の年始に名士達も大勢集って来ると解釈するのでございませうか、因み
に大正未編纂の「根岸人物誌」と云う本には六六七人の名が挙っております。一とかどの名ある人がこんなに一地域に集った所は他に類を見ないのではないでせうか、今より七十年余の昔でございます。
「人も来ぬ 根岸の奥よ 冬篭り」
元来、「根岸」と云う地名は崖の根もと、山のふもとの意味でありますから此の場合「岸」は「がけ」と理解す可きであります。中根岸、下根岸を貫流する菖無川の上手、つまり上根岸は根岸の奥になる訳であります。と同時に最も上野台に接近した所で、根岸の最も根岸らしき地縁があると思うのでございます。明治十六年迄鉄道の無かった根岸、昭和の始めまで鴬谷駅の無かった根岸、従って此の交通不便な根岸の奥の佗び住いに冬になって人が家に篭るようになれば根岸もひっそりとする訳でございます。
(羽二重団子会長 澤野庄五郎)