6代目庄五郎トーク

第2回だんご寄席 上根岸町近傍図(其の一)

 その昔と申しましても明治22年市制町村制施行までの当地は、広域に「根岸の里」の一部でございました。明治18年新富座で上演されました黙阿弥の書下ろした「霜夜鐘十時辻筮」(しもよのかね、じゅうじのつじうら)の一幕に「根岸芋坂の場」が登場しております。
 現に此の「芋坂」は私どもの脇から天王寺へ上がる坂道で、その三分の二は京浜・山手線の鉄道敷地となりましたが山際に今に残っております。
また名所図会に「天王寺の裏門(現日暮里駅ホーム末端)までを根岸と言う」とございます。
 斯様な次第で「根岸の里」の内、最も上野台に近い「上野根岸地区」こそ根岸の最も根岸らしき地縁がございますところから、本日もまた「根岸界隈」を選んで作図したものをご説明することに致しました。
図の左上部より斜めに下がる線二本は現在の「尾久橋通り」(当初の放射11号)で、直上ヤヤ右寄りより斜めに下がっておりますのは現在の「尾竹橋通り」(もと、日暮里銀座通り)で、下の右寄りより右はじへ向かうのが「言問通り」でございます。

 それでは図面右上(1)の「お行の松」から始めます。安藤広重の江戸百景に画かれております「お行の松」は江戸十八松の一に数えられる名木で、幹は二抱え高さは十三米六十あり大正15年天然記念物に指定されましたが、昭和3年落雷によって枯死いたしました。現在は身代わりの三代目が植えられております。「お行の松」とは山形の出羽三山の一、湯殿山の末御日坊が此処で常に行をしていたのに因来すると申します。また今から百九十年前の文化六年に貞松院と云う尼さんが、文覚上人手彫の不動尊を納める堂宇を建立したと伝えられます。

 (2)この二股榎と云うのは上の方は一つの幹で、下の方が二股になっている珍木(オバケ榎とも云われる)で、最初根だった部分の盛土がくずれ落ちて根の部分が地上に露呈したものと思われます。高さ二十米、もともとニレ科に属する比の木は大変大きく育つのが常で、江戸時代には町場の入口とか街道の標識に利用されたと申します。紙面の関係でお行の松の近くに描かれておりますが実際は現在の柳通りから入った西念寺のそばであります。

 (3)名古屋の伊藤呉服店は「松坂屋」の前身であります。その昔、富士山が噴火して山の左肩に宝永山が出来た宝永四年(一七〇七)江戸へ進出して参りました。
 後年、上野の戦争の折、広小路角のこの松坂屋は官軍に利用されたと申します。この松坂屋が大正14年3月、この地金杉分に上野松坂屋根岸舎宅(男子寮)を設け、専ら店に従事する年少店員の保護、教養を目的とする施設として利用されました。舎宅生三〇〇名隊伍を整え毎朝出勤する光景が私の幼い日の思出として今に残ります。

 (4)牧野径太郎氏は多年萩原朔太郎に師事して詩作に傾倒しておりましたが、近年「戦場のボレロ」で作家としてデビューいたしました。牧野氏のご先代は明治末より当地に住まわれ、金融業を営む側ら不動産も手掛けておりましたので「笹の雪」さんの元の店跡の金杉分を手に入れ、そこでドイツのツェッペリン伯号が飛んで参りました昭和四年、飛行船形のパンを売出して大成功を収めたそうでございます。

 (5)明治五年学制が制定され、当地方では明治七年に「根岸小学校」と「板橋小学校」が同時に開校いたしました。「根岸小学校」は当時の金杉村七十番地(現・下谷病院右隣)に京都仁和寺末、真言宗西蔵院内で生ぶ声を上げました。根岸小発祥の地の記念碑があります。因みに「根岸小」は全国八大学区の中の第一大学区に属し明治十七年迄は日暮里三河島の子弟もみな根岸小学校へ通いました。

 (6)笹の雪さんは音無川以北の金杉村で代々業を営んで居られましたが、道路改正に伴い昭和二年現在地の根岸小学校前(下谷区上根岸町)へ移られました。

 (7)鶯春亨は安政年間に鶯会(鶯の鳴き合せの集い)があった当時からの店であります。鶯会(うぐいすえ)と云うのは「葵の誉」とか「青葉一号」とか鶯に名を付けて、音無川沿いのお行の松から善性寺に至る間の家々の軒下に鳥篭を下げて、当日の参会者は瓢を腰に手帳を手にして、いつれの鶯が一番良い声かと優劣を競う集いのことで、毎年春先を待って催されました。従って「王子みち」を歩く人々が歩く音がウルサイと注意されたと申します。その品評発表会が此処鶯春亭で開かれました。
 鶯春亭の座敷からは金杉村・三河島村一円の田圃を通して晴日には筑波山がウス紫に眺められたと申します。比の店「料理珍味あり金麩羅」(今の天ぷら)として名が聞えました。

 (8)円光寺の境内地に藤の名木あり(依って藤寺の俗称)藤棚七間、花の房五尺都人群集す。と当時の新聞記事で紹介された亀戸天神とならんだ名所であります。

 (9)このはな園(岡埜)は庭の見える座敷でしるこを畷り料理を食べて句会、その他集会に利用されました。
 後年、大正中頃売り出され総合医療所「養生院」となりました。十畳間が待合室、診察室、休憩室と竝んで三間、庭のあるお医者さんで私も人力車に乗せられて扁桃腺治療に通った記憶がございます。

 (10)昭和39年、佐藤英作総理が根岸小学校へ教育現状視察に参られました。当時世論で何で絵理は名門校と名のある「根岸校」を選んだのかと、疑問視する声がありました。これに対し後日、総理府から弁明がありました。「根岸小学校は日教組の無い都内唯一校で比の時分、総理が学校視察に行くと必ず日教組の主調に阻まれて、純粋な教育現場を見ることが出来ないからだ」との新聞報道がありました。

 (11)見ざる、言はざる、聞かざるの三匹の猿を祀るカノエサルの庚申さま(庚申塚)は柴又の帝釈天信仰、青面金剛信仰相共中国に派生した道教の神であり仏である教えであります。見ざる、言はざる、聞かざるを表現している猿はそのお使いであります。大正時代まで道路の中央位置に道祖神として祀ってありましたが、道路の改正と共に只今は根岸小学校前に馬頭観世音と共に移されております。

 (12)この場所旧72番地全部、御柱祭で有名な諏方大社の神官の血統一族であります信州高島藩主諏方忠元子爵の持ち物であります。
尚同所在、能楽師宝生流十世家元「宝生新」は豊かで潤いのある美声で名ワキ方として名あり、昭和10年最初の芸術院会員に選ばれました。

 (13)カイホウ樅(もみ)は松科の常緑樹であります。(クリスマス・ツリーの木)樹の高さは30米あって変化自在の天狗の栖家と聞いております。文政図に
お行の松 13米
二股榎 20米
カイホウ樅 30米
根岸の三木と見えております。
尚、ねぎしみち、なかみちは共に文政図にあり、高札場があったので札の辻と云われた坂本二丁目(現下谷二丁目)交差点へ通ずる古道であります。尚、札の辻角の「鍵屋」は安政年間の建物と云われ、小金井の江戸博物館分園に再建されております。

 (14)この場所ではございませんが図上にここしか空きがないので記1〜2について説明いたします。図の左はじから真中へやがて石上に向かって音無川が流れておりました。川の源は石神井の三宝寺の池だと云うので石神井川というのが古くからの名称でありますが、いつの頃でありますか途中、王子権現の下を流れておりましたので新任の宮司に紀州熊野の出身者がおりました「紀伊ノ国は音無川の」と邦楽にありますところから、それにあやかって奇麗な川名を真似て以来、音無川と命名、王子から下流では「音無川」と呼ばれるようになったと伝えられます。
 日暮里の田圃は大正二年まであったと云われますから、此の時分までが菖無川が潅漑用水として利用されたと思われます。図の右上お行の松の前を流れた先は三の輪で、これより右に曲がって只今の白髭橋の辺で大川(隅田川)へ落ちておりました。尚、川に画した各戸の家々では夫々私設の木橋を架けて川向うの道路へ出て生活しておりましたが、やがて市郡合併で北豊島郡が東京市に吸収合併され、新市内に荒川区などが出来た年、昭和7年にそれ迄の「王子みち」の真下に音無川は暗渠として入り今は名を残すのみとなりました。

 (15)戦前の歴史教科書のさし絵(主として鎧武者絵)を画いたのは殆ど尾竹国観竹坡のご兄弟でありました。

 (16)作家で洋画をよくした有島生馬は有島三兄弟の真中であります。長男「有島武郎」は明治11年生まれ「カインの末裔(まつえい)」などプロレタリア文学を主とした作家です。大正11年軽井沢で雑誌記者の波多野秋子と情死しております。此処に所在した「有島生馬」は兄より四才下の次男です。昭和39年文化功労者として表彰されました。因みに三男は兄より6才下の「里見弴(とん)」であります。昭和34文化勲章受賞者であります。

 (17)旧上根岸町42番地、現鶯谷駅北口前にある元三島神社は伊弉冉(いざなぎ)命、三島姫命など6柱を祀る根岸、金杉地区の氏神様でございます。

 (18)明治末から大正末まで「東都随一の料亭」と大いに宣伝いたしましたのは割烹「伊香保」であります。現在の鶯谷駅ホームぎわからスター東京側、藤田などホテル街一円敷地3,000坪、木造3階建て、建坪500坪園内には台上より桜川、泉川の水を引いた泉水を擁し、上野の山を借景とする中の島を設けて赤橋にてこれを渡ると云う。湯の花の温泉に一浴して盃を一献傾ける風情また格別なりと云う。此の「伊香保」に対して新坂をはさみ「志保原」が出来た。(スター東京の前側ワールドの辺)この辺り元々徳川家霊廟の火除地であります。
尚、戦後柴又の川甚がこのヒントで岩風呂をこさえ客を招いた。また浅草のビューホテルにも檜風呂の趣向ありと聞く。

 (19)平田篤胤(あつたね)は出羽久保田潘士、脱潘して本居宜長に師資相承する国学者であります。京橋に私塾を開き門人550人を数えたが後年、江戸幕府の咎(とが)めるところとなり秋田に追放された。また比の「根岸の先生(平田篤胤)は一本橋の北、2〜3丁先田圃の中に住せり」と古書に見えております。恐らく後年の「吉田別荘」(現・竹の台高校)辺りと思われます。尚一本橋は図の中央近く春光堂、写真館前の橋です。さてその吉田別荘(吉田丹左ヱ門)は敷地3,000坪もあり俗称大質屋(質屋(おおじちゃ)の大卸問屋)と云われました。吉田家にはこんな話もございます。ご存知昭和2年の金融大恐慌の引き金ともなりました彼の渡辺銀行の頭取の長男のところへ嫁に行った吉田家の娘さんのはなしによると。「家では毎年お正月に歌舞伎俳優を呼んで踊らせた。
また毎年お正月には横山大観に富士の絵を描かせた」と古き良き時代の憶出を語っておられます。
明治末発刊の「下谷繁昌記」によると吉田丹左衛門・下谷区一の資産家なり・資産150萬円とあります。

 (20)瓜生外吉海軍大将は石川県の人。明治38年5月27日の日本海海戦の折、「皇国の興廃この一戦に在り」と善戦し大戦果を挙げた瓜生外吉後の海軍大将は昭和10年、当所に於て亡くなられました。その葬儀の折には天皇陛下より勅使のご差遣があり、当時市内当方面では初めてのこととて区内外より各種団体多数の人々が、道路の両側に整列すると云う大盛儀でございました。

 (21)浜野医院さんのご先代は始め根岸小裏の養生院の代診をしておいででしたが此処に小児科医院を独立開業せられました。二代目の「浜野恭一先生」は新宿の女子医大の名誉教授でありましたが現在は常務理事をお務めでございます。大腸ガンの国際的権威者と医学誌に紹介されております。

 (22)一本堂薬局のご先代は警視庁の監察医(検屍宮)を長くお努めでありましたが、戦後日暮里駅西口上に移店され、現在は二代目の「浜野元則」氏が各所にチェーン店を設けられ大変ご繁盛であります。

 (23)昭和四年関東大震災被災地復興に対するアメリカの救援資金によって、市内各所に建てられた同潤会アパートの一つであります。原宿・江戸川橋等高名でありますが此処では「同潤会鶯谷アパート」と申します。此の敷地1,000坪には明治30年頃、日本鉄道社長・白杉次郎太郎の郡がありましたが、当時川向こうに住んでいた正岡子規に依れば「近くの某郡に電話が仕掛けられた」と当時の記述があります。恐らく当方面電話第二号であったと思われます。

 (24)水鶏橋(くいなばし)について、水の鶏と書いてクイナと読みます。文字通りくちばしと足が長く水をかいくぐり水陸を走り廻ります。この辺の河川、沼地等、金杉の田圃に北方より飛来いたします。全身茶褐色で20cm程の鳥で肉は美味でございます。

 (25)「根岸の薬師」には眼を患う人々が目薬を求めて随分遠方よりお詣りに来られました。境内には御隠殿跡の碑がございますが、只今では旧蹟を残すのみとなりました。

 (26)皆様ご存知、アドリブとギャグを巧みに使った落語で一世を風靡して、テレビに映画に大活躍をされた今は亡き「林家三平」師匠の厳父は江戸時代からの名門「林家正蔵」の七代目であります。代々上根岸にお住居の林家さんご一家は近年お建てになった「三平堂」を本據に、お女将さんの「海老名香葉子」さんそして後継者の「こぶ平」師匠など大にぎわいの根岸名物のご一家でございます。

 (27)中村不折は江戸で生れでフランスに留学した洋画家でありまた書家であります。初め子規の主筆する新聞「小日本」の挿絵など描いて子規との交流がありました。昭和九年太平洋美術学校長を努め同十一年書道博物館を開館いたしました。当館の収蔵物中重文11件があります。
また中には岡倉天心が中国より持ち帰った墓石付属品の「枕石(まくらいし)」がありますが、これは私どもの前の寺で昭和32年区画整理による改装工事の折出土した「枕石」と寸分違わぬものであります。因みに此の墓は石見国、浜田潘六萬石越智松平子爵家300余年の墳墓でございます。正岡子規に付きましては今迄度々申し上げておりますので、ここでは「子規宅」の転居についてのみ申し上げます。子規は明治27年2月1日上根岸88番地から82番地へ引越しましたが、比の引越しをするすこし前にこの近辺を二ヶ所見ることにしておりました。一ヶ所は加賀屋敷ご門内で謡曲の「宝生新」の住んでいた家でありますが、当家は門限があって当日はおそくなって止めてしまいました。あと一ヶ所は御隠殿下のいわゆる「お化け座敷」図29番の下の「金沢製薬所」のところであります。この家見の時は「夏目漱石」も一緒で「あれなら広いから君も一緒に住まえるよ」などと子規が申しております。でもやはり「お化け座敷」が引っかかって、ここも止めて元の88番地のすぐお隣りの終生の子規庵となりました所へ引越することにいたしました。そして遂に明治35年9月19日此処で長い病魔との戦いを終わり36才の生涯を畢えられました。
(羽二重団子会長 澤野庄五郎)