6代目庄五郎トーク
第3回だんご寄席 上根岸町近傍図(其の二)
平成11年11月17日
№27 八石教会
子規庵のそばに八石(ハチコク)教会がございます。下総の国(千葉県)香取郡長部村字八石に本部があって、幕末の農民指導者かの「大原幽学」が主唱する祖先をまつり倹約することの教えで、根本は古い秩序を守り、正しい生活をという精神道場であり、実践道場であります。教会の人は、何処へ行くにも決して汽車や人力車を用いない。会費は農家が主体ですが、中には大工さんも左官やさんも植木屋さんもいて、収入は全部教会に納めて一銭も私しない。魚は食べるが、肉は食べない。支部はここの他、下根岸、渡辺町にもありましたが、この時代、激流のように迫ってくる資本主義の勢いに呑まれて、やがて教会は明治の終焉と共に亡んでしまうのであります。幕末から始まって、子規の時代には未だ隆盛な教会活動があったようであります。
№28-1 仕立屋銀次
天下に名立たるスリの親分「仕立屋銀次」はもと日本橋旅篭町の仕立屋へ奉公に出ておりました。ここは大丸呉服店の下請けで大変繁昌しておりました。時に銀次は腕が良いので、やがて無事に年期を勤め上げ、21才で御徒町に自分の店を持ちました。ところが、銀次はこの時分から遊びを覚え、賭場に通うようになり、偶々仲間の一人にスリが居て、手口を教えられると遊ぶ金欲しさについ自分もやってみたくなり、もともと、指先仕事の仕立屋でありましたから、たちまちその方の腕を上げて仲間の評判となりました。時に「根岸の親分」で通っていたスリの大親分は「清水熊太郎」という姫路藩士の嫡男でありましたが、この男の妾腹の娘「清水くに」と銀次は良い仲となって世帯を持ちました。時に銀次28才、くに20才であります。初め入谷に住んでおりましたが、根岸の親分の死後はその跡目を継いで全国のスリの仲間に「仕立屋銀次」の名で知れ渡ったのであります。
当時、銀次は入谷の寄せ場に常時100人の子分を置き、自分はくにと共に日暮里村字金杉に引込んで親分稼業をつとめておりました。当時銀次は家作の収入が月百数十円あり、資産5万円とスリ日本一との風評がありました。時に明治42年6月、新潟県の柏田という知事が東京市電の中で「伊藤博文」に贈られた金時計をスラれるという事件が起きました。そこで懇意の赤坂警察の本堂署長に「是非取り戻してもらいたい。」と申し出ました。明治末のこの当時は、東京市内でのスリは1,500人といわれておりましたが、本堂署長は市内の二大親分「仕立屋銀次」と「湯島の吉」に出頭を求め、被害品の提出を命じました。ところが、銀次はたかが一署長の呼び出しに応じられるものかと出頭いたしませんでした。そこで、本堂署長は外勤巡査2個小隊を上野西郷銅像前に招集し、印半天で変装させ、二手に分かれて金杉の銀次宅を包囲し、本堂署長が先頭に立って踏み込みました。この事件で銀次は四谷の監獄に収監され、懲役10年の刑を受けました。と、その日の捕物の話とともに先々代はこの事件を語っておりました。
尚、銀次の捕縛されたこの年明治42.10.26、伊藤博文はハルピン駅頭でピストルを持った朝鮮人に暗殺されました。
№28-2 牧野子爵邸
長岡藩士 牧野忠篤(チュウトウ)は日露戦争に功あり、金杉町134番地に寓居しておりました。当時、三角屋根の洋館三階建は、ひときわ人々の目を引きました。
№29 日光堂 №30 大石橋
音無川より御隠殿に入る角に日光堂さん(福田さん)という薬局ができましたのは大正末でございます。この人が戦後、御隠殿のありし日の俯瞰図を模造紙一面に描いて「根岸小学校」と「社会保険鴬谷検査センター」へ納めました。この図には、川に面して御隠殿の赤門(正門)が建ち、その前に「石の橋」が架けてあります。この橋を初め「御隠殿橋」と記名してありましたが、後日誰かに注意されたとみえて、わざわざこの橋名を消しに来たと聞きました。それもその筈でありまして、私の調べた「台東区史」他数冊の関係紙でも、いずれも「御隠殿橋」の記名ははく、その中の一冊に「大石橋」とあるに止まります。通りの向こう側の隣接区の荒川区教育委員会の建てた標識に「この前側の音無川に御隠殿橋」があったと表示してありますが、聞けば荒川史談会の出版した本にならったとのことです。この本を書いた高田史談会会長に問いつめると、私の創作だと認めました。どうでもよい、些細な史実ですが、こんなことですから、数年前、日暮里駅上の「下御隠殿橋」の説明に、「御隠殿橋」の下流にあったのでと音無川を逆流させる始末で、重ねて失笑を買いました。総て歴史を疎んずる結果でございます。
№31 前田家
加賀前田家13代、「前田斉泰公爵」がここ82番地の下屋敷内に能舞台を建て、ご門内のお長屋に謡曲師「宝生新(アラタ)」を住まわせ、師事いたしました。この年明治8年のことであります。この舞台の背景に普通は松を描くのを敢えて松を描かず、前田家のご先祖に当たる「菅原道真」に因んで梅を描かせたので、有名でありました。その後この舞台は前田公爵の亡くなった後、駒込染井の松平家へ移築され、幸運に戦火に焼け残った都内唯一のものとなり、戦後しばらくは各流派の方々が挙ってこの舞台を利用いたしました。
平成8年5月横浜市がこれを買い取り、54億円を掛けて横浜市の掃部(カモン)山公園に移築再建いたしました。
この由緒ある能舞台は京都より東では文化財としてナンバーワンであると申します。尚、現在の東大の赤門はこの能舞台を作った前田斉泰のご内室「溶姫」が将軍家11代家斉の当時のしきたりでお輿入れの時に作らせたものであります。
№32 鴨下晁湖
明治23年東京生まれで大正〜昭和を通じて高名な日本画家であります。日本の風物を描く大和絵系統の特に歴史画を松本風湖(天保11年常陸出身、明治17 年東宮御所の襖絵を描く)に学びました。戦後は連載ものの挿絵を手がけ、岡本綺堂の半七捕物帳や柴田錬三郎の眠狂四郎無頼帖に軽妙で品格のある作品を残し名声を博しました。
№33 森鴎外
ご存知「森鴎外」は明治17年、日本政府の派遣武官としてドイツに留学いたしましたが、公務の傍ら文学・美術に親しみ、私的行動に対する中傷で帰国を命ぜられたといわれます。帰国後も公務の傍ら詩や小説の翻訳などで鴎外の名を一躍高めました。明治23年〜24年に「舞姫」「うたかた記」「文づかい」等ドイツ3部作を続いて発表しましたがこれは主として現在の根岸2-6-1ビジネスホテル「江戸屋」の隣接地で執筆したものといわれます。
№34 別宅
昔から根岸の里は江戸の郊村でありましたから、年中火事のありました江戸市中、特に日本橋界隈の覇気多き人々は、挙ってここに火災前後の避災地としてセカンドハウス(別宅)を設けました。有名な「駒形どぜう」さんも早くからここに別宅を設けられましたが、先代の6代目渡辺繁三さんは、関東大震災(大正12 年9月1日)の時は丁度中学生で、避難地のここ根岸のここ根岸の別宅から府立七中へ通学したと御主人ご存命中に伺っております。
№35 御隠殿
大凡を申し上げますと、京都より遥々下って見えた法親王は毎日、只今の国立博物館の位置にございました寛永寺本坊にて主として書見と要路の人々との引見に明け暮れておられましたが、時折京都を懐かしみ寂しく感傷にふけるご様子でした。これをお慰めする為に御休息所である3千余坪の地に御隠殿を設け、邸内に「月光殿」「呉竹寮」等を建てましたので、法親王は大変お喜びでありました。ある時は邸内の泉水に舟を浮かべて舟上の宴を催し、その唄声や鼓の音が入谷田圃まで聞こえたと申します。丁度只今の京成電鉄ガードのカーブしている辺り山の手・京浜東北線の線路上の位置でございます。尚、御隠殿坂とは御隠殿焼亡後、谷中基地から邸内地へ入る下り坂を指し、御隠殿橋とは昭和2〜4年にかけて線路上に架けた跨線橋を申します。
№36 徳川婦人墓地
御隠殿坂を上り、右へ折れた参道の傍らに石塀で囲った千坪程の集合墓苑がございます。ご承知のように旧幕時代は男尊女卑の時代でありましたので、将軍御自身は歴代の寛永寺霊廟へ祀られましたが、女性はご正室でも別の所に葬られました。幾つかの石塀囲み墓地の内、代表的な一例を挙げてみますと、芋坂よりの一番左端より
(1)浄観院殿(12代家慶のご正室−有栖川織仁(タルヒト)親王の娘「喬子(タカコ)」樂宮(サザノミヤ)、天保11年没【45歳】)
(2)高厳院殿( 4代家綱のご正室−伏見宮貞清親王の娘「顕子(アキコ)」浅の宮、延宝4年没【38歳】)
(3)證明院殿( 9代家重のご正室−伏見宮邦永親王の娘「増子」比の宮、御輿入れ2年後享保18年没【23】)
(4)宝樹院殿( 3代家光のご側室−お樂の方、4代家綱の生母)
№37 貝塚
現在の元「天野代議士」宅にほぼ近い北の方角に一段土地の隆起がありました。そこが貝塚であります。これより三河島駅方面にも同じく貝塚があります。大正の初め、天野宅の隣接地に専売局の煙草工場がありましたが、焼亡後再び建ちませんでした。
№38 尾竹竹坡
先の説明で三島神社の北方⑮に尾竹国観がおりましたが、その兄にして、やはり歴史画、特に甲胄武者絵を得意とする「尾竹竹坡」が善性寺裏におりました。谷中霊園「徳川婦人墓地」の前に墓があります。
№39 小糸源太郎
東京美術学校−洋画科卒。在学中の明治43年文展に入選。のち帝展審査員、東京芸大教授、昭和40年文化勲章授章。上野「揚げ出し」−西郷銅像下前の豆腐料亭「揚げ出し」の次男。
№40 油屋熊八
明治40年頃、私どものお得意様の「油屋」さんが突如夜逃げ逐電され、後日の仄聞(ソクブン)で相場に失敗したとのことでありました。やがて時は移り、昭和の初め、私ども4代目庄五郎がまた風の便りで、油屋さんが別府温泉で大成功したというので、九州旅行の途次立ち寄ったところ、「東京を離れて以来各所を転々、遂に九州別府で「杉の井ホテル」を経営するに至ったとの消息を得ました。私も戦後昭和50年頃、別府に赴き、別府中央公園入口で出会ったよその団体のバスガイドさんの説明を聞いておりますと、「この顕彰碑の主「油屋熊八」さんは別府鉄道社長、別府観光バス社長等々別府の要職を総て歴任する「別府開拓の主」でこざいます。」と伺いました。この杉の井ホテルの現在は熊八さんの曾孫の代だと思います。因みに平成10年の全国温泉旅館の年所得はナンバーワンでありました。
第3回 続き (時間切れの為、終了後希望者)
上根岸町近傍図(解説其の3)
№41−42 子規の車上所見
明治32.9.28もうこの時分、結核性カリエスの病、既に重く、久しぶりの外出は、座敷より車夫の背に乗って車上の人となり、新聞「日本」掲載の「道潅山」執筆の元となります。ここで正岡子規さんの「道潅山」を改めてご紹介いたします。「音無川に沿って遡るに右に焼き芋屋有り。昔の侭なり。其家の横に植込の小庭ありて(浜野植木屋の庭)秋海棠一もと二もと、木の間、石の陰ともいはず、まばらに咲き満ちたり。(中略)其の並びに長屋4〜5軒(角の立花屋 (金田)下駄屋の持家家作−現在鶯谷・勝村建設先隣金田住友ビルなど、日暮里銀座にも多数家作を持つ大家)ありて、三味の師匠など住む。虚子嘗てここに住みしことあれど、其家も我は知らず。」( )内引用者注。虚子が間借りした新婚世帯を書いた最初の小説「四畳半」のモデルはここですよ、と現在のライオンズマンションの位置を、虚子研究グループの世田谷の奥様方にお教えしましたところ、皆様大変な驚きと感激ぶりでしたが、これは昨年秋のことでございます。
№47 当店
子規の文章の続きのついでに、ガイド№を4つばかり飛ばして、子規の同じ所見を続けます。手前どものことで、恐縮ではございますが、「道潅山」の続きでありますので、読ませていただきます。「ここに石橋ありて芋坂団子の店あり。繁昌いつに変わらず。店の内には10人ばかり腰掛けて食い居り、店の外には女2 人佇(タタズ)みて団子の出来るを待つ。根岸に琴の鳴らぬ日はありとも、この店に人の待たぬ時はあらじ。戯れに俚歌を作る 根岸名物芋坂団子売り切れ申し候の笹の雪 」とございます。敢えてご説明は致しません。
№43 善性寺
飛ばした№43に戻ります。日蓮宗の名刹「善性寺」は明治40年に先住(前住職)が亡くなり、当時は何処の寺でも世襲は出来ません。そこで、宗務院から「特選」という推薦で来る坊さんによって後が継がれる規則でありました。ところが当時北海道函館の「実相寺」という山寺から来るという宗務院の通達に、日暮里村の檀家一同は猛反発して拒絶いたしました。何せ当時の北海道といえば、未だ未開地という印象ですから。ところが、宗務院が申しますには「騙されたと思ってこの人をいれてご覧なさい。今に日本一になりますよ。」でした。なるほど大正2年に入山以来、それから10年で立正大学の学長になりました。昭和の初めは総本山身延山の大番頭「総務」になりました。そして、ついに昭和8年日蓮宗最高位の「法主」と「管長」を兼任されました。この方「日兼上人」と申しました。そして、10数人の弟子を持ちましたが、その中から2人、また日本一を出しました。一人は総理大臣「石橋湛山」であり、もう一人はやはり「法主」となった「藤井日静上人」でこざいます。
只今門前に置かれております「将軍橋」は明治39年、それまでの土橋を石橋に架け替えたもので、その後昭和7年の道路改正の時に不要となり、記念に善性寺が貰い受けたものです。この将軍橋のいわれの主、六代将軍家宣は生母が此処に葬られたことを知り、度々墓参に来たようです。家宣の父は家光の三男徳川綱重、母は側室お保良の方(長昌院殿)であり、叔父の五代将軍綱吉の養子となって将軍家を継いだのが48歳の時、その後長昌院殿の徳川家菩提寺の寛永寺墓地への改葬が行われたのは、宝永2年9月と、改葬墓参警護図が古文書として今に残っております。
№44 王子街道
音無川に沿った昔から道−古道は正式には「王子みち」でありますが、一般に俗称では「王子街道」といっておりました。只今の駅前消防署の前で上流に向かって川の左側の道が橋を渡って川の右側に変わります。また、当店の前の将軍橋では、根岸から上流に向かって川の右側を来る道が、橋を渡って川の左側に変わります。
№45 守田勘弥
初代守田勘弥は四代将軍家綱の時分からと伝えられる古い家柄であります。12代勘弥の時代は江戸3座のうち、木挽町の森田座の座主(帳元)でありましたが、明治5年「新富座」と名を変え、明治8年株式会社に改め、日本一の劇場を目指しましたが、余りにも大がかりの構想で、設備投資の負債のためにつぶれました。その後駅寄りの私どもの前にお住みになった13代勘弥は、演技者(役者)になって人力車でお出掛けの時、必ず毎日私どもへ入って来て、「焼きだんごで一杯くんな。」と冷や酒をコップで飲んで、車上の人となって出掛けられたと伝え聞いております。
№46 大河内子爵邸
上総大多喜藩主 大河内家は代々2万石を領し、上野動物園裏門と護国院の間の暗闇坂(上野高校の向かい側)の本邸と、当地に別邸を設けられましたが、後年、弟さんが、昭和7年までに此処に住まわれました。
№48 境界線
既に№47は済んでおりますので。現在の台東区と荒川区の区境となっておりますこの境界線は、線路の向こう側つまり、谷中の台地の山裾(丘の麓)まで一直線で、元は官地下水(明治〜大正)でありましたが、下水の両側の民地分は私どもと山下家の境界でございまして、戦後両家で官地下水の払い下げを受け、現在は真中で等分しております。度々申しておりますように、明治22年5月1日施行の「市制町村制」(下谷区の出来た時)に基づきまして、音無川の南側地区 (元は金杉)が下谷区に編入されることになりまして、音無川南側地区の最上流末端がこの境界線でありまして、つまり、当時下谷区と北豊島郡(郡部)の分岐点であり、これは、元御隠殿敷地の西北に当る現日暮里駅寄りの境界石垣のあった所であります。因みに、音無川のずーっと下流の下谷区編入の最下流末端は現在の三ノ輪交差点であります。(交差点の四つ角全部台東区、白鬚橋へ向かう明治通りが区境)
№49 逸見(ヘンミ)さんのこと
現在のスーパーの経営者では分かりませんが、以前から缶詰を扱っていた業者に「逸見の缶詰」と聞けば知らぬ人はいないといわれる我国最初の缶詰業者が、日本橋本石町丹お店のあった「逸見三洋堂」でございます。当時、この逸見さんのお住まいが私どもの隣にありまして、ここで、多くの人を集めた精神道場が開かれ、この道場に通っていたのが、彼の有名な代議士を辞めて、天皇に直訴した「足尾銅山鉱毒事件」の立役者「田中正造」でございます。逸見さんが田中正造のスポンサーをしていたことを戦後の新聞で秘話として掲載されて初めて知りました。田中正造は広く義人として崇められ、その葬儀には五万人(大正2年)の会葬者があったと申します。当時の入口しかも田舎でというとを考えれば、異例中の異例であったといわれます。実は百坪ほどの敷地にぐるりと庭の廻った私ども家作に、逸見さんはおられたのでごさいまして、昭和8年頃、駒込の大和村に立派な邸宅を新築され転居されました。
№50 石田さんのこと
早稲田大学教授の石田工学博士は、本邦初のテレビジョンを製作放映したと、この世界では名声を博しておられます。昭和10年頃のお話です。
№51 久保さんのこと
木彫り人形師久保佐四郎師は、百坪ほどの敷地の庭に茶室のある私どもの家作におりました。昭和8年12月23日皇太子明仁親王(現天皇)のお誕生の直後、当時帝展審査員で、「佐四郎人形」といって人気作家でありました佐四郎師に、宮内庁より五月のお節句に間に合わせるよう10才児等身大の鎧兜(ヨロイカブト)着用の若武者人形のご注文があり、9年4月頃、宮内庁差し回しの車に先生も同乗され、無事納品を完了し、菊花の大きな菓子を拝領して戻られ、そのお裾分けを頂いたことを今に覚えております。この2階ロビーのテレビの上の人形ケースの中の主なものは皆、佐四郎人形の遺作であります。尚、戦後昭和23年頃、外地より背嚢(ハイノウ)を背負って軍服姿で現れたご長男が「今さっき行って来ました強制疎開の転居先の浅草馬道で、3人の幼児と父母一家五人は、3 月10日の空襲で一家全滅と聞かされました。」と言って涙ながらにご挨拶にみえました。極めて温厚温和な芸術家一家、静かなご家族でありましただけに、ひとしお哀れさを感じて、思わず貰い泣きをしたのを覚えております。
№52 芋坂
芋坂の東寄りは山の雫をしたたか受けて、各所から清水が流れておりましたので、里芋畑があり、西寄り(今の日暮里駅方面)には2つの寺がありました。鉄道の施設にしたがって妙楊寺は明治15年に世田谷烏山に、また長善寺は鉄道の拡幅によって大正14年に杉並区高円寺に、夫々墓地共々移転いたしました。その跡地が現在の10本の現役の線路及び日暮里駅構内ホームの一部であります。尚、上野の戦争の時、この芋坂は退口(ノキグチ)として、始めから予定されていたと言われます。落ち行く者6〜700名、落ち行く先は一路日光、会津であり、そこを目指して尾久の小台橋へ向かいました。芋坂は現在1/3程度、線路の向こう側の山膚に名残を止めております。
№53 鉄道
明治11年発行の参謀本部陸地測量部の五万分の一地図を見ますと、上野発各汽車の線路名に海岸線(後の常盤線)とあります。これは、田端で乗り換えの後機関車を付け替えて、日立の海岸を石炭を積んで走ったので当初は斯く呼ばれました。また、中仙道線(後の高崎線)とありますのは、明治2年廟議決定(明治天皇と英国人技師)により東海道では汽船の方が安く採算が取れないので、東京−京都の両京を中仙道線で結ぶのが宜しかろうとなった計画でありましたが、明治 17年廃案となりました。理由は予想外にトンネルが多く、施設費がかかり過ぎるということでありました。最近話題のリニアモーターカーでも、山梨の試験区10里のうち、4里を施設するのに、予算3,000億円全部費消してしまい、残り6里で一時計画頓挫の実状だそうですが、その理由が、トンネルの連続で予算超過ということで、全く同じような話でございます。
さて、番外として、大正14年発行の「根岸人物誌」というのがございますが、根岸に関係のある名声ある方々667人を収録したものでありますが、その中から衆知の方々をほんの一部ご紹介いたします。尚、只今までのご紹介も時間の関係で一部の部分記事でご案内してまいりましたが、これから申し上げますことは、更に僅かのご案内でお許しを頂きます。
(1)酒井抱一 姫路城主酒井雅楽守忠以(ザネ)の弟、絵画、書、俳諧、能等多芸多才の人。現金曽木小学校そば、根岸4丁目に雨華庵を建てて住まう。
(2)亀田鵬斉 根岸4丁目、石稲荷辺り。江戸神田生まれ。儒学者、儒学塾を開く。
(3)岡倉天心 横浜生まれ、根岸3丁目お行の松近くに住む。東京美術学校校長、日本美術院創立、帝大教授文部省出仕。
(4)大槻文彦 辞典「言海」「大言海」作者、現東日暮里4丁目お行の松近く住む。
(5)服部一六 服部学校(塾)一根岸小学校以前の私学校私塾開く。根岸4丁目区境、音無川通り、鶯春亭前。
(6)浅田宗伯 明治期、漢方医界の復興を計った。大正天皇侍医。浅田飴の元祖。芋坂を上がって、旧五重塔へ曲がらず、横山大観、鳩山一郎の墓の手前、石造りの不動明王像のある墓に眠る。
(7)河東碧梧桐 子規の弟子。現根岸2丁目、八二神社前。
(8)陸奥宗光 現根岸3丁目、寛永寺坂下邸建物現存。勝海舟に学び、竜馬の海援隊員、農商務省、外相、伯爵。
(9)森田思軒 ご隠殿跡地。慶大卒。報知新聞記者。明治翻訳界の第一人者。明治30年、37歳で没。
(10)高橋健自 寛永寺坂ガードよりご隠殿方線路際。古墳の研究者。耶馬大国大和説。帝国博物館鑑査官。
(11)陸 羯南 明治中期を代表する新聞人。日本新聞社長。正岡子規の理解者、支援者。
(12)岡野知十 お行の松の上流の音無川畔。現根岸3丁目、江戸派俳人。
(13)小沢碧童 芥川の俳句師匠。書道博物館そば。
(14)宝生 新(アラタ) 下掛り宝生流ワキ方十世家元。九世は父 金五郎。八世は祖父 新朔。特に新は稀に見る恵まれた天分で、名声を博した。豊で潤いのある美声と堂々とした風格、どんな有力なシテにでも巧みに調和していく芸力を兼ね備え、しかもワキ役として最も大切な素朴さを失わない名ワキ方として評判であった。昭和10年最初の芸術院会員、宝生弥一の師匠。善性寺の92歳で亡くなったおばあちゃん(日蓮宗法主 日雄上人(前出日兼上人と二代連続法主)の妻)の実父。
(15)浅井 忠 元三島神社そばに住まう。安井曽太郎、梅原龍三郎、石井柏亭、中村不折の師匠。後年、京都に赴き、関西美術院を創設、初代院長。関西絵画の総師。
(16)寺崎広業 日本画家。上野美術学校教授。現「スター東京」位置住人。
(17)小堀鞆音 上野の美術学校教授。安田靫彦、尾竹国観の師匠。善性寺裏。
(18)鏑木清方 神田生まれ。文展無監査。帝展審査員。文化勲章受賞。善性寺裏。
(19)林屋正蔵 初代(1780〜1842)は江戸の商家の生まれ。書、狂歌、義太夫、に精通。噺本「升おとし」等著す。怪談噺のジャンルを確立。人情噺でも名を成した。ご存知三平さんの厳父七代目正蔵は本名「海老名竹三郎」(1894〜1949)で「相模見物」「たらちね」「素うなぎ」等を得意とした。古典や新作ものを手がけて格調ある芸風を持っておられた。尚、正蔵さんの名跡は現在海老名家でお持ちと伺っております。
(20)三遊亭金馬 お行の松の前側。釣り道楽で有名。
(21)柳亭痴楽 柳通り、香味屋裏。
(22)桂 文治 千手院そば、根岸3丁目。
(23)坂東彦三郎 坂東菊五郎の弟。時計集めで有名。鶯谷駅北口前、根岸1丁目。
(24)四家文子 声楽家。萩の湯−根岸サウナ−から寛永寺坂の途中。
(25)水島道太郎 同上
その他 明治〜大正にかけての根岸の特色「名物」
(1)根岸の土 赤茶色の土は100年前、「平六」という者により発見された。「根岸」という符丁の塗壁は全国を席捲した。聚楽系統の塗壁である。
(2)萬年青 おもと 明治10年全国おもと大会で優勝した。その価格当時で数十万円といわれた。
(3)煮山椒 元三島神社前。藤原某の店。
(4)食店 笹の雪と当店 羽二重団子といわれた。
(5)辻暁夢(ギョウム) 河鍋暁斉(ギョウサイ)の弟子にして、元彰義隊士。お行の松前で「紅梅焼」を売っていた。当店の江戸期の面影を描いた。