6代目庄五郎トーク

第5回だんご寄席 妙めを奇談天保図

「妙めを奇談天保図」

平成12年6月21日(水)
昨年、丁度今頃でございます。当店創業180年に際しましてこの催しを開きまして以来、今回迎えて第五回目でございますが、毎回満席で大変ご迷惑をおかけしております。皆様お忙しい中を大勢様お運び頂き恂に有難うございます。

今回は毎回お参加の方と初めておいでの方とおいででありますので、今迄のごく概略を申し上げますと、第一回では当所「根岸界隈の内・根岸の地域性」について申し上げました。根岸の里から北の方を望みますと、紫にかすむ筑波山の風光を眺め見、広重の錦絵にも見えますように遠く続く水田(タンボ)には、常に鶴が舞い下りて居りました。「酒井抱一」は「元日や朝寝起すや小田の鶴」と詠んでおります。

江戸城の上にも、いつも鶴が飛んでおりましたので、古く「舞鶴千年城」の別称もある程だだと、主として江戸時代の根岸をご案内申し上げました。

第二回は「根岸界隈」その二でありまして、明治〜大正時代を背影に「上根岸近傍図」をお配りして、根岸独特の「風土性」について「根岸の里」の内、最も上野台に近く、最も根岸らしい地縁のございますところから、黙阿弥の書下ろした「霜夜の鐘、十時の辻筮」に登場する「根岸芋坂」までを採り上げさせて頂きました。

次の第三回、昨年の11月17日では、子規庵のご近所の「八石教会」から始りまして、嘗て当地に寓居され、その後九州別府の温泉の開拓の主となりました「杉ノ井ホテル」創立者「油屋熊八」さんの話までをご説明いたしました。

尚、当日の講話資料は本日出来ておりますので、後程お帰りの節受付にて差し上げます。(売切に付き、お申込によりご住所に〒にて郵送)

更に第四回本年2月16日には「上根岸近傍図」ご案内の残り部分をご説明いたしまして、これにて根岸界隈は総べて完了いたしました。

そこで更めて当地の「天保図」なるものをお配りしてご説明いたしましたが、何せ、時間の制約で、途中で中止の止むなきに至りました。

さて、本日「第五回だんご寄席」では前回に引続き、「叡北四季の景物」をご説明申上げるのでございますが、初めての方もおいでなので、更めてご案内申上げます。

この図は今から162年前の天保九年に作られた此の辺り一帯の俯瞰図であり、案内図であります。現存するものは都立中央図書館加賀文庫と立正大学神習文庫の二ヶ所であります。

夫々巻物仕立てと折本仕立てがありまして、本日お目にかけるコピーはその一部、口絵に当る部分であります。

その題名は「妙めを奇談」又は「道のしおり」となっております。「妙めを奇談」と云うのは不思議な話しの意味でありまして、この図に続く後半部は陰陽石に因む、滝沢馬琴等、当時の風流人達の漢詩又は和歌等の作品集からなっております。又「道のしおり」と云うのは、口絵の絵図で、後に続く陰陽石をご覧にお出でなさいという「案内図」であります。

横長手図入

さて今日は上段の左の方「叡北四季の景物」から前回に引続いてご案内いたします。「上野東叡山北陰(北の陰に当る場所)の春夏秋冬四季おりおりの景色及び風物(観光の一年)」案内を解読いたします。

春〜
【梅】ご陰殿の東、其外方々の庭園に夕方、月の出初めの頃、暗の中に梅の香りがただよいて、情景すばらしく言葉を知らない。
【鶯】むかし東叡山ご門跡法親王が京都東山の育ちの良い種類の鶯を放たれたので、今でもその声が続いている。とにかく他の種類の鶯と音色が異なると感じているので、今年最初の声はいずれかなと耳を傾ける。
【桜】天王寺境内、日暮しの里のあたりいずれも桜の花の花吹雪となる。

夏〜
【藤】円光寺(現存根岸小の裏)の庭にある藤は有名で、俗に藤寺と云う程だ。また、芋坂下の酒店(昭和四年?酒を売ることも兼業としていた現羽二重団子の前身「藤の木茶屋」の入口の藤棚、共に開花盛んなり。どんなお偉い方(高貴な方)がおいでになるのか、めでたい色(紫色)がかっている(大変な形容でのほめ方)。
【螢】音無川の流れか又は谷中宗林寺(七面坂を下りて阿弥陀道左)裏、世間で云う蛍沢は共に四月から七月の半ば(陰暦八月半ば)まで蛍が飛ぶ。「此の地方では(ここでは)苦学をする者は蛍を袋(嚢)にするに及ばない」
→解説:中国の「孫氏世録」と云う書物によると、孫康と云う人は雪明りで本を読み、シャイン車胤と云う人は蛍を集めて袋に入れてその光で勉強したと云う昔話をもじって斯く申したのであります。
【水鶏(くいな)】善性寺裏の金杉村から谷中台地にかけての世俗を離れた田圃・小川・沼地などで、クチバシが長く、これで戸をクックックッあるいはコッコッコッと叩いているような声を上げて夜になるとよく鳴いている。美味(茶褐色、体長20㎝、鴨より小さい冬の渡り鳥)。御隠殿の先に水鶏橋。

秋〜
【月】御隠殿前(音無川に大石の橋、その前に赤門)台の下(現鶯谷駅附近)松原(現寛永寺坂上–三本松)等が月見の環境に最もふさわしい。その上、法親王(宮様)の催すウタゲ宴での笛、琴、の音が台上に反響するような夜は、まるで俗界を離れた仙人の棲む世界のような趣すらある。
【雁】三河島(三川じま)の沼地、その他の田畝(田圃)(デンポ)に列をつくって地上に下りて来る(落ちる)雁のさまは平沙(平らな広々とした)の落雁(八景の一)=田圃の落雁の景をよく表している(そっくりだ)。
【紅葉】(秋色ふかし)–緑→紅に変わる。
天王寺(現日暮里駅南口寄り)から台上本行寺裏に渡辺幸庵さん棲む幸庵坂(駅前広場噴水より踏切への途中)へかけて、と三島さま(現鶯谷駅前)の辺りの紅葉の色最もよろしい。昔(いにしえ)の古事に倣い、林間に紅葉を焚いて酒を暖めて飲んでは如何かな。幸庵=大番組頭、関ヶ原に功あり。一万石をはむ。後世浪々の身–ナゾの人物なり。

冬〜
【雪】東叡山の暮雪(寛永寺のある台上に雪の降る夕景)八景の一。それと、三川じま(現三河島)北の方三川島村へかけての雪の眺めは(雪景色)一般(一様に)銀世界の看を(呈を)なす。(のように見える)
【山茶花】根岸の紅(べに)と云って特別の紅色の種類であります。その色は強い紅色で、秋から冬へかけて咲く。花弁が比較的大きい。
此の様によく育つのは地質が適応しているのであろうか。
【枯野】定所なし(一定の場所はない)。
浅草田圃・入谷田圃 共に寺社・民家混在 下谷・千束の街場混在 金杉・坂本(札の辻)街場混在 時代によりご府内
根ぎし(ご府内の外の郊村で寮・別宅など混在)
谷中(台上の谷中には田圃はない。後に鉄道線路となった台上に上る傾斜地にもない)従って芋坂下に下谷中と記名があるように、現駅前地区(谷中本)共に田圃・畠あり。
従ってご府内からはずれた郊村の田畠でありますからこの当りは最も寂寥(ジャクリョウ)(さびしい)所なのであります。特に板を葺いた屋根に落ちる木の葉の音に、時雨(秋から冬に降る雨)が降らなくても、雨が降って来たのかなと疑う。此こに至りて(以上)で当所の春夏秋冬(四時)の造化(自然の摂理)を知ることが出来るのであります。
「(志賀)徳斎」しるす

以上を書き記し編集したのは正にここに記した通り「徳斎」その人でありますが、此の「奇談の主人公」(此の「案内書の主人公」)は共に徳斎の父親「志賀理斎」なのであります。従って編者「徳斎」は「志賀理斎」の四男に当ります。ここで主人公「志賀理斎」を紹介いたしますと、理斎は寛政九年神田聖堂「学問吟味所」で行われた学問御試しで、受験者249人中受賞した者23人、此の中に入り銀五枚を賜りました。早速小普請組(現今の会社の営繕課)から始まって長崎奉行所赴任、書記職を務めた時に年36才。その後、御台様(11代将軍家斎のご正室茂子)御広敷御用部屋書記となりました。その後、御金蔵奉行被仰付下さるも71才にて職を辞し、この地、下谷中の佐々木信濃守抱屋敷より1,332坪を譲り受けました。かくして此処に隠居した理斎は、或日庭木の根元より珍らしい不思議な型をした陰石(空から落下した隕石でない、陰部の陰、それも女性的の方、即ち女性の陰部を表す石)を掘出してしまいました。

ところが此の陰石が夜な夜な夜泣きをするのです。これを伝え聞いた人が先年遥々蝦夷地より手に入れたと云う陽石(陽気の陽、陰に相対的な陽、つまり男石のこと)を贈って呉れました。ここで目出度く陰陽石一対の完成を見ましたので、理斎は此れを祠(ほこら)に祀(まつ)り、鳥居を建て、お祭りをして、此の二石を題材にして広く天下に詩歌の募集をいたしました。特に世の風流人士を対象に呼掛けました。すると募集に応じた人々は挙って此の陰陽石を見たいと云い出したので、勧進元が此の案内図を版刷りして配ったと云う次第であります。

前回第四回だんご寄席の際、時間の関係で急ぎご案内したように上の方右はし「閑居」のところ七字ずつ竝べてありますから「閑居七律」と申しましょうか。「官を辞して書を読み悠々自適の生活をしているが訪れる人もいない」。続いて「因て諸君に告ぐ」でおいで下さるなら、土地の名物「谷中生薑」を差上げよう〜と、以上が前回まででご説明いたしました。次に本日先程の「叡北四季の景物」となるのでございます。

さて次回はいよいよ陰陽石に因んだ物語りは赫々然々(カクカクシカジカ)と、風流人士相集う梁山泊の成果如何(イカ)にと、乞うご期待と云うところでございますが、公開の席ではどうかと危惧(きぐ)しております。

本日は以上をもちまして終らせて頂きます。