6代目庄五郎トーク

第6回だんご寄席 日暮里村の変遷

平成12年10月18日

日暮しの里を偲んで

当地日暮里の沿革につきましては、幾度か申し上げて参りましたが、武蔵丘陵の一部に属する火山灰地の高台と、荒川の沖積作用で江戸湾に出来た出洲に狩猟、農耕の人々が営みを始めてより此の方、数千年の歴史を経て、漸く中央大和の国より派遣の国守により農・漁村の集落が支配統治されるに至りました。

当時此の地が「武蔵国荒墓」と云われ、日本書紀や更級日記に見えるのが抑々の史実の始まりであります。

関東に土着した皇族の子孫は清和源氏の流れをくむ源頼義、源義家、そして桓武平氏の流れをくむ豊島氏や江戸氏となった。

此の頃、現在の道灌山の地に豪族関長耀(ナガテル)入道道閑が館を構えていたが、(この道閑は相模の国粂川より移住)

この道閑の女(ムスメ)は同じ豪族の江戸重長に嫁いでおります。その後、道閑の所領は豊島ツネヤス経泰(ツネヤス)のものとなり、やがて此の豊島氏は大田道灌に滅ぼされた。

太田道灌の出現は関道閑より300年の後であります。此の大田道灌は上杉定正に謀殺され、その上杉は北条氏綱に滅ぼされ、此の時より江戸一円は小田原の北条氏(後北条)の勢力圏下に入り「小田原衆、所領役帳」に「新堀」の地名が見えております。

やがて豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏は滅び、関東一帯は徳川家康の支配地となり、江戸時代を迎えるのであります。

江戸中期、享保の頃(1735)当地についての公文書はすべて「新堀」でありましたが、諏方台上からの絶好の景勝を「眺め飽かぬ間に日の暮るるを忘る里」などと云われだし「日暮里(ニッポリ)」の地名が生まれたのであります。

その頃の日暮里村は隣接の田端村が荒川よりずっと続いている田圃の行き着く所、道灌山の山裾でありました所から「田の端」(田端)と称されたのと同様、日暮里村も水田を主とする小農村落でありました。

ところが江戸末期から明治にかけて、繁華な市中に対する郊村或は住宅地として、隣接する「根岸村」と同様に、市中中央日本橋の大店のセカンドハウス、別荘(寮と云う)など好んで建てられ、また粋人墨客の此の地へ移り住む者多く、「根岸の里の侘び住まい」(質素な住居・閑居)などといい、景勝の「日暮(ヒグラシ)の里」に対して、いわゆる「呉竹の根岸の里」と竝び称されたのであります。

時に徳川幕府の瓦解によって慶応3年大政が奉還され、明治四年七月江戸が東京(トウケイ)と改称され、明治政府による近代国家への先駆けとして先ず此の地に鉄道が敷かれました。

当地に鉄道建設が始まったのは明治15年(1882)谷中台の斜面に当る芋坂の自然薯(ジネンジョ)畠に「鉄道測量隊」がずかずかと入り込んで「お上(カミ)だぞ」と傍若無人に振舞ったと、当時の古老の話しが残っております。

やがて明治16年7月、上野〜熊谷間が完成し、同月26日北白川宮(能久親王)台臨の下、試運転が行われました。
註:ご隠殿–第十五代寛永寺ご門主・公現法親王 翌明治17年6月25日明治天皇臨御(行幸)の下、上野駅の開業式が行われ、次いでお召列車で同駅を発車、四時間余を費して高崎駅に御到着、再びご乗車にて夕刻上野駅に還行せられました。

以上は明治14年(1881)右大臣岩倉具視等の主導する国家事業の一部でありまして、その路線構想は
1. 東京より上州「高崎」に達し、此の中間より青森まで施設する。
2. 高崎より中仙道を通じ、越前敦賀に接続し、更に京都に赴き、東西両京を連絡することでありました。

新版「日暮里村の変遷図」で見る通り(地図右上端)はじめ、高崎線も、のちの信越線も共に最初は幻の線名「中仙道線」として出発いたしました。
また明治29年(1896)田端から水戸に向う常磐線が開通いたしましたが、東北本線の「山線」に対し、これを「海岸線」(茨城県日立海岸を走って石炭を輸送したため)と呼んでいたのであります。

はじめ此の海岸線は上野発・田端経由でつまり田端で乗り換えていたのであります。しかし、此の不便を解消するため、明治38年(1905)4月1日
日暮里駅を開業させ、日暮里・南千住間に複線が新設され、現状のように短絡化されたのであります。

以上のように日暮里駅は明治38年開業いたしましたが、当時の「山手線」は明治18年(1885)新橋〜品川〜目黒〜渋谷〜新宿〜池袋〜赤羽間が開通し、次いで明治36年(1903)になって漸く池袋と田端間が豊島線によって開通し、いずれも蒸気機関車が走っておりました。(明治42年暮・山手線電化)

尚上野と東京駅間山手線はずーっと後年の大正14年(1925)になって開通し、これで漸く山手環状線は全通したのであります。

「日暮里村の変遷図」でご覧の通り、日暮里駅開業時の駅構内及ホーム位置は現状より遥か北方、今の西日暮里駅(昭和46年6月開業)方面にありましたが、大正の初め上野方に移動したのであります。

此の移動の理由については、日暮里駅を出た常磐線列車は間もなく左へ曲折いたします。これは当初の頃はよかったが、上信越線、東北線の拡幅工事によって、常磐線を更に左は寄せなければならなくなりました(左へ曲るカーブ線が強くなった)。

此の屈曲するカーブが更に急激になれば列車の安全が保たれぬ為、日暮里駅ホームをずーっと手前に移動して、緩やかに曲折する距離間を出したのであります。