6代目庄五郎トーク

第7回だんご寄席 艶色「延命院」実録

平成13年2月21日

艶色「延命院」実録ほか

日暮里は上野の北の裏側にあって、「上野停車場を発って初めて地方情緒を感じる灰色の街だ」と昔の新聞に載っております。こと程左様に明治期の日暮里は未だ江戸の郊村の名残りを引きずっておりましたが、漸く田圃が埋められて宅地に代わりつつありました。

明治38年4月1日日暮里駅は海岸線(常磐線の前名)の次の駅三河島と共に開業いたしました。なおこの日は日露戦争時広瀬中佐による旅順港の閉塞作戦が行われて一週間目に当ります。

続いて大正2年7月町制が施行され、日暮里町役場が竣工致しましたので、住民の歓呼の声と共に落成式が挙行されました。ところが一方三河島方面の工場群はいずれも煙突を林立させ、弥が上にも灰色の煙が空を覆っていたのであります。

斯くして日暮里駅に停車した車窓から遥か北方を眺めた新聞記者をして「灰色の町」だと呟かしめたのでございます。しかし此の日暮里が「日暮しの里」として広く世の人々に知られていた史実を知る人は少ないのであります。

高村光雲の懐古録によると、浅草・入谷の記事がありまして、光雲は徒弟時代(小僧時代)、下谷北清島の仏師(仏の塑像家)高村東雲の許で修業をしておりましたから、あの辺りのことが詳しく記してあります。
「伝法院の庭を抜けて(観音堂の左手)田圃の畦道を真直ぐ行くと後ろのひょうたん池を経て、伝法院の西門(浅草寺の西門とも云う)に出る。その出口に江戸侠客の随一と云われた「新門辰五郎」がいた。(江戸下谷の生れ、文政の頃、西門門番の町田家の養子となる。後、新しく出来た新門(西門)警備を引受けた。後、町火消十番組の頭(かしら)となる。

続いて光雲の懐古録を申し上げますと「北の方は吉原田圃で西は入谷田圃に続いて根岸の寮が点在し他は総べてばくばく(広々)たる水田であった」とあります。古老の話しを聞いても、此の地日暮里から吉原遊郭の灯が見え、ただ見亘(ミワタ)す限り田圃であったと申しますから、浅草の方に住んでいた人々はばくばくたる水田を通して根岸・日暮里方面の村落をみつめていたと思われます。又初代広重の「三河島」と云う鷹場の絵には往時のこの里の良さがよく偲ばれるのであります。台下の此の地に対して台上の地も又眺望に勝れ、その景観を賞(メ)でては「日の暮るるを忘れた」と謂われたのであります。特に雪見寺(浄光寺)諏方神社別当寺。月見寺(本行寺)小林一茶寄寓の寺。花見寺(修性院)谷中七福神の一、左甚五郎作布袋像。これ等の寺は如れも庭園の美を誇って有名でありました。本日は谷中台上の名刹の内(地図の位置)「延命院」についてお話し申します。

江戸文化の爛熟期の文化文政の頃より、これをずーっと遡って数十年の間は(井原)西鶴(江戸元禄期以降の俳人)が男女の交情を書きましたが、これがあながち(好色もの)ときめつけないで、むしろリアルな実勢そのものだったともてはやされたと思われたでありましょう。その頃の事でございます。

享和年間のこと、くわしくは享和3年7月のことであります。江戸谷中の日蓮宗延命院の住職日道(実名日潤・墓あり)が破戒(文字通り戒律を破る)女犯(婦女をはずかしめる)の科(トガ)(罪状)で死罪となりました。此の事件は後年、河竹黙阿弥により美男の女犯僧「日当(仮名)」が暗躍するこの事件は「日月星享和政談」として舞台でお馴染みとなりました。ご承知の通りであります。

私は嘗て、昭和30年の残暑の一日、此の寺、延命院の先代住職本宮師を訪ねたことがありました。

此の寺には以前から好色を窺(ウカガ)う文筆家などの来訪が屡々のようで、斯かる人々との面談を極力避けていた住職でしたが、私が保護司仲間と云う気安さから、当山の略縁起のうち艶色延命院の実相を聞くことが出来ました。

先ず此の事件の罪状でありますが「住職の身をば顧みず淫欲(みだらな性欲)を恣(ほしいまま)にし(自分の思うまま)とあるのは(罪状申渡し文中)町方の娘や大奥の婦女(女中)を誘惑して通夜などと称して寺内に止宿させ、みごもった娘を堕胎させたと云う罪状でありまして、終(つい)には日本橋の橋詰で晒らされた上、首を刎ねられたと云うことであります。

ところがこの罪状は実相とは少し違うので、此の寺の略縁起によれば、山内に安置する七面明王の扁額のある七面堂内のご本尊は日蓮宗総本山身延山の七面山の本尊と同じで白大蛇(白へび)であります。身延山裏山の七面山頂上の七面堂で日蓮上人が三・七21日の法要を営んでいたところ、満願に当る21日目に日蓮上人の法力に屈した娘に化身した白蛇が立去った跡に残していった3枚の鱗のうちの一枚が此の七面堂内の本尊として祀られていると云うのであります。

私は是非これを見たいと懇願いたしました折、特別にと念をおされて、此の大蛇の鱗一枚の入ったギャマン容器のうちを窺き見ることが出来ました。なんだか紙一枚らしきものが入っていたように見えました。これが当時、大変な評判で大変繁昌をして、江戸市中からも押すな押すなとおし掛けて来たと云われています。

ところで人の繁昌を嫉(ネタ)み、妬(シネ)み、僻(ヒガ)むのは世の常と申します。就中、地続きの上野の山一円に点在する寛永寺36坊のお寺さん方はご自身、谷中茶屋町にある「いろは茶屋」(玉代が四十八文)なる岡場所に遊び乍らも、通ずれば感ずで女出入りの多い此の寺、延命院を悪質な破戒僧に仕立てて、東叡山と云う破格の地位(一万石のご朱印寺、なにせ1万石でしたから)を利用して、時の寺社奉行へ讒訴したのが此の事件の経緯であり、実相でありました。

兎も角、この霊験あらたかな七面明王の功徳は遍く町方、大奥の婦女子に及んだと云うのは、当時の書物にものっておりますが、婦人が主に信心するところは今日の新興宗教にも有無通ずることもあり、兎角これが間違いのもとで、狂信すればする程、遂には昼陽中参籠(暫時お参り)したのが「昼陽中より乳繰り合せ」と云う罪状に変ったのであります。

特にとかく市井に縁遠い大奥のお女中方なども参籠にこと寄せて気分ばらしもしたであろうし、信心の果ては終日参籠した者も居たでありましょうし(これが夜な夜な淫欲)しに変ったのであります。これ等に付いては当時お調べに際し、寺社奉行まで提出した真相の供述書の写しなどもございました。

ただ黙阿弥の書いた「日月星享和政談」は当時の事件を風刺した戯曲でありますから、同業者である谷中の寺々の讒訴により敗訴となって、実際に死罪となった延命院日潤をモデルにした上、更に当時これ又破戒僧のトップを飾って実在した下総(千葉)の「蓮華往生」を結びつけたのであります。此の蓮華往生と云うのは、高齢で金銭に恵まれた者が此の寺の法会の儀式で、天極(天国)へ向って極楽往生が出来ると云う葬儀のセレモニーなのであります。

先ず希望者は寺へ10両を納め、親戚縁者を集めて法要を営むのであります。
法要に当っては先ず最初に「開経華」のお経から始まり、やがて人々の目の前、本堂の中央に据えられた大きな蓮の花の開いた蓮台の中へ申込者が導かれます。

やがて蓮の花は読経と共に閉じられます。(これは地下で轆轤を廻し、操作します)斯くして、読経が終って花が開いた時には、完全に成仏して極楽に往っていると云うのであります。

これは破戒僧の一人が床下から蓮華台座の中央に明けてある穴の上に座っている信者に向って槍をつき刺して、一挙に成仏させたのであります。一突きで死に至らしめるのでありますから、余程の手練手管の者がやるのでしょう。

特に読経や鐘太鼓の音で、悲鳴など密閉された花びらの台座の外には洩れなかったのでしょう。ともかくこれが「蓮華往生」と云って流行ったと云われます。実在の事件であります。ところが或日これを訝(いぶ)かった一人の知恵者が蓮華座の中に入ってから、尻の下へ鉄の板を敷いていたので、此の往生事件も発かれ、大騒ぎとなったものであります。

当然、此の破戒僧は死罪、寺はお取り潰しと相成りました。