6代目庄五郎トーク
第8回だんご寄席 名刹「善性寺」と改葬秘話
平成13年6月20日(水)
くわしく申上げますと善性寺が区画整理によって改めて墓を作り直した時に、余り世に知られない2〜300年前のご遺体の埋葬状態を知ることが出来たというお話し
私どもは、前のお寺を昔から大変由緒のある寺院と認識しておりますが、存外ご存知でない方もおられますので、まずは先に善性寺の経歴(略縁起)を申し上げます。
大体、寺の資格(寺格)と云われるものは、第一に創開がいつ頃か、宗祖との関係はどうであるか、第二に寺宝並びに竝びに財産(土地など)どうか、第三に檀家数、以上を勘案して(物差があって)、宗務院・総本山から定められた等級にはめられます。此の寺は総本山を身延久遠寺に置く日蓮宗の寺院で、全国7〜8000の寺院の中で20階級中5階級に属し、正式には関妙山善性寺と申し、その昔宗祖日蓮大上人ご直筆の御曼荼羅があった寺、また徳川6代将軍家宣のご生母が葬られた寺、寺領(域)は都市計画(昭和7年)区画整理(昭和27年頃)で減らされて尚、2,000坪程(都内では多い方)、檀家数700軒(家)〜500家以上はA級〜以上であります。
私は現在、檀家総代をいたしておりますが、贔屓の引き倒しになりませんよう、飽迄も史実に忠実に忠実に申上げ、後半で世に珍しい2〜300年前の松平家53基の墓石の発掘の模様をつぶさに御案内申上げます。
今より748年前の建長5年の昔、日蓮上人は鎌倉に於て邪法(他宗)を信ずることを禁じ、法華経のみを信ぜよと云う内容の布教をはじめ、そして災害の発生と蒙古の侵攻と云う内容の立正安国論を時の幕府に差出したところ、誇大妄想狂と幕府の怒りを買って佐渡ヶ島へ流人として幽閉されました。やがて3年が過ぎて幕府は日蓮上人をご赦免になりました。
此の時代、幕府の所在地鎌倉から、上・信越方面(東北方面も同じ)に赴くのは、みな相模の国を真っ直ぐ北上する鎌倉街道(相模街道)しかございません。従って日蓮上人が佐渡より鎌倉へ戻る途中、相模平野の真中に位置する粂川辺りに一泊するのが馴いでありました。此の粂川は現在の西武鉄道「久米川」であります。戦前は村山貯水池で有名なところ、現在は西武球場で知られております。時に此の辺り一帯を領有する郷士は「関小次郎長耀(ナガテル)入道道閑」でありました。
上人は一日此の館(砦)に宿泊したところ、難産に苦しむ此の家の妻女の願いに応えて「杓子に曼荼羅」を書いて与え、杓子でお腹をさすりました処、無事に男子を出産いたしました。
此の関道閑が同じ領内の「新堀の地」、只今の日暮里駅と田端駅の中間の西側台地に新に屋敷を構え、谷中の台上に関長耀(ナガテル)入道道閑が長耀(チョウキ)山感応寺を創開し、台の下に関氏に因み(一族でなく両方とも関入道)関妙山善性寺を開き、一族の「関善左衛門」が杓子の曼荼羅をもらい受け、善性寺の守り本尊といたしました。以上のように此の日蓮上人ご直筆の「杓子の曼荼羅」は伝説発祥の地を「粂川」とし、関家同族が善性寺に祀ったのでありますが(史学界では此の辺善性寺の縁起と異なる)、五代将軍徳川綱吉の治政下の元禄四年宗門に「不受不施派事件」が勃発し、幕府のお咎めを受けた時、此の杓子の守本尊は親寺の感応寺を経由して、谷中の瑞輪寺へ預けられ、その侭現在に至っております。
次に6代将軍家宣のご生母が埋葬せられた件であります。今より340年の昔、寛文二年、山梨県の甲府を中心とする甲斐の国25万石を領地とする甲府宰相と云われた「徳川綱重(ツナシゲ)」(3代家光の次男)この方(甲府宰相)の側室「お保良の方」は、根津の上屋敷に於いて、無事に男子を出産され、これが後の6代将軍家宣となった、当時の名は徳川綱豊であります。註:四代家綱は家光の長男、五代綱吉は家光の四男、次男甲府宰相綱重、三男は早死。
当時此の甲府宰相「徳川綱重」は叔母に当る三代将軍家光の妹東福門院(後水尾天皇の女御:中宮(皇后)になる前の職名)のすすめで、関白左大臣二条光平の娘を正室として迎えたばかりでありましたので、その手前ご遠慮を申上げて、側室「お保良の方」と一子綱豊を国家老「新見(ニイミ)備中守」に預けられました。ところが甲府宰相綱重は一子に会うとの口実のもとに度々「お保良の方」の方を訪れておりましたので、またまた「お保良の方」が懐妊してしまいました。そこで今度は急遽の対策として、家来「越智与右衛門」の妻として下賜されたのであります。(以上徳川実紀による)
斯くして「お保良の方」を迎えた越智与右衛門は妻とは云え、主君の胤を宿している女性でありますから、別に一室を設けて丁重にもてなしたと申します。妻とは申せ、名のみで主君の愛妾を預けられた与右衛門の苦衷如何ばかりかと察するに余りあります。
「お保良の方」は此の越智家で次男「清武」を産み、その翌年28歳で没しました。まことにお気の毒ではありますが、当時側室は27歳おしとね辞退つまり27歳定年制でありました。此の松平清武は後年、他の松平氏との混同を避ける為に「越智松平」と称されました。此の松平は初め上野(コウズケ)の国(群馬)館林藩24000石から始り、石見(イワミ)の国(島根県)浜田藩61000石と転封(お国替)となりました。幕末の頃の越智松平家8代「松平武聰(タケアキラ)」と云う人は養子で、水戸斉昭(烈公)の10男にあたりますが、この人長州征伐の際は幕府軍の先頭で戦いましたが、慶応二年の第二次長州征伐の折には逆に長州軍に攻め込まれ、浜田城に火を放って飛地領の鶴田(タヅタ)城(岡山県)へ逃れました。此の時、家老の「赦罪賜死(シャザイチシ)」(制度)によって藩はかろうじて存続、安泰し、九代の松平武修(タケナガ)は前からの61000石のまま、廃藩置県を経て、明治17年の華族令により「子爵」に列せられました。以上此のように松平清武を初代とする「越智松平」家が善性寺の大檀越(オツ)(辞書によると梵語大旦那)、もとより最高の檀家であります。
以上申上げた6代将軍「家宣」とその実弟「松平清武」の実母「お保良の方」はその実家(根津の魚屋)–根津の上屋敷は権現様となり、権現様のつつじは弟の館林から運んだもの–の縁(菩提寺)で此の「善性寺」に葬られておりましたので、後に伝え聞いた「家宣」は屡々参詣に訪れておりました。そこで山門前の音無川に架けられた橋を「将軍橋」と呼ぶようになったと伝えられます。
やがて「お保良の方」の柩櫃(ヒツギ)は芋坂のすぐ上の「徳川墓地」(数十坪)へ改葬され、宝永二年九月「長昌院殿天岳台光大姉」改葬供養図として今に残っております。(鉄砲隊30、槍隊20、その他大目付警護各大名家)。「家宣」は、はからずも叔父さん(五代綱吉)に子が無かったので、次代将軍に抜擢、母の墓はその侭善性寺に置く訳にゆかず、将軍家の菩提寺の寛永寺墓地の婦人専用墓地に改葬することになったと察せられる。
此処でいよいよ松平家墓地改葬工事
昭和26年講和条約』批准、その翌年昭和27年東京都第34地区区画整理法公布によって始まった、日暮里駅前地区及び放射11号道路を主体とする工事は戦前戦後を通じての最大の規模でありました。
これによって善性寺の墓域は500坪程せばめられ、特にその半分に該当する200余坪の松平家代々の墓地(墓石53基9は悉く整理の対象となって僅か数坪の新移転地に合祀せられた(現在のもの)。
此の工事は昭和31年2月1日に始まり、同年6月30日を以て完了。(工事期間5ヶ月、53 墓53仏合祀)
此の間、先祖代々の墓石は凡そ2メートル四方の台座(こんな真四角な石はない)に石材2分の1(長方形の石)1.5メートルの台座(石材一つ石)を以て二段重ねし、その中央に60㎝×60㎝×2m松材(線路枕木を大きくした素材)縦10本横10 本を敷詰め、これを除くと土地30㎝下から枕石と称するものが一墓に一つ必ず出土いたしました。枕石は80㎝×50㎝の石箱で、その蓋を取ると、蓋の裏に「此の下に墓あり衷みて掘る勿れ」とあり、片見の部分(身の方)は埋葬者の身分等、例えば「従○○位少将将軍の十九男に当××」とあり、次で経歴が刻まれ「汐見坂本邸(現在のアメリカ大使館の位置)に於て死去、谷中善性寺に葬る」とあります。此の枕石はどの墓からも同じものが一様に掘出され、現在も合祀された根府川の一枚石の周辺に数個竝べてあります。「衷みて掘る勿れ」と云っても法律の前には致し方なく、53の仏様が掘出され、合祀される運命にあったのであります。尚、此の枕石は根岸の書道博物館にある、岡倉天心が中国の墓下から持って来た枕石と殆んど同じようなものであります。枕石の1メートル下には木炭が湿気止めに一面に敷き詰めてあり、その量は牛車で10台分もあろうかと思われます。その下、地上より3メートル辺りからは松脂をとかして流し込んだ層が表われました。流し込んだ松脂の層の厚さ約15㎝、これを取り除くと初めて三重棺の初めの棺桶(柩)が、更にその下の二重棺を経て、遂に仏様が直接納棺されている柩(70cm×80cm×160cm)が出て参ります。此のお棺の蓋を取ると蓋の裏側には前に出て来た枕石と同様、仏様の経歴が墨痕鮮かに記され(書かれ)てあります。此のお棺の底は二重底でありまして、最初の底には無数に穴が明けてあって、その穴から仏の体脂(タイシ)が下へ落ちるようになっていて、最下部の底には藁灰の黒い状態が脂を含んでビッチリ敷き詰めてあると云う方法で祀られてありました。
そして某日、此のお棺が沢山溜ったので、片付ける為に、整理事務所でも掘った穴へほうり込まれると下水等掘る時困るとのことで、火をかけた処、警察と保健所から飛んで来ました。聞けば善性寺で仏様を焼いているとのこと、その異臭が日暮里駅周辺まで届いて、訴えの電話が方々からあったとのことでした。
さて第一号に上ったお棺を2月初めの夕景近く、この墓掘り改葬業者、と云っても埼玉の上尾辺りの半農の連中を大手の石材店が束ねている、此の連中が第一号を町屋の火葬場へ荼毘に付す為、持って行った処、釜口が小さく、お棺が大きくて入りませんと拒絶されて帰って来たことがありました。そこで此のお棺を一晩本堂側(ワキ)の土の上に置いて、翌日、寺出入葬儀社から現在使われている普通棺桶を求め、これに入れ替えて更めて火葬場で焼却いたしました。
斯様に53体を処理するのに6月一杯を要しました。200年を経てお棺を開けた殿様のお顔は翌日棺桶に入れ直した時には、幾分引締った感はありましたが、兎角(トニカク)、茶褐色で若干頬が痩せて、目はパッチリ明けて到底200年前の方とは見えないご遺体でした。
何処(イズレ)かの連絡で調査に来られた東大の先生方のお話しでは、木乃伊(ミイラ)になる前の屍蝋(シロウ)(死体が長期間湿潤〔しめりっぱなし〕した結果、蝋のような脂肪に変化する)と云うのだとそうです。
53体の遺体の中には昌姫様と書いた曼荼羅を書いたものが一杯入っていて、長髪が胸の上に垂れ、組んだ手の甲が下に下がり、眼はとろけて無くなり、正に絵に描いた幽霊そのものようなのもあり、長袴の礼服を着た殿様や、3尺低い所に側室と思われる方々の墓数基、又石灰で水付いた中から出てきたご遺体はドラム缶のように水ぶくれした女性遺体、等々いろいろでありました。
因みに作業している連中が芝増上寺で戦後プリンスや東京タワーに割譲する為、徳川家代々を整理した経験者だと云うので、その模様を聞くと、皇女和宮を初め夫々皆、骨ばかりのバラバラ遺体であったとの事、恐らくあちらの場所が高台であった為、埋葬する方法が違っていたのであろうと思われます。此方の方は周辺みな田圃の湿地帯であったので、遺体保存上大変手間のかかった方法で埋葬したのでしょう。
ついでにJR上野公園口前の文化会館敷地の徳川家墓地改葬事情をこれ又聞くと、これも骨ばかりのバラバラで、如(イズ)れも6尺四方の透し彫青銅棺に入っていたとのことでありました。
その後昭和40年頃、既にテレビ普及の頃、芝魚藍坂辺りの寺で、やはり区画整理にかかって改葬した現場を朝から晩まで映しておりましたが、これ又骨だけだったようです。
昭和50年代の終り頃、中国上海郊外で百数十年前の中国貴婦人の、やはり屍蝋遺体が出土したと終日テレビで放映されたのは、特例で此の当時この話題が当分続きました。
又昭和の終焉を迎えた頃、新潟新発田藩々主の墓が学術研究に供されたとかで、現地からヘリで東京四谷の慶応病院構内広場に直四角な、かなり大きい棺桶その侭釣り下げて空輸されて来て開いた処、これ又骨ばかりであったと聞きました。このように善性寺の屍蝋遺体は、大変稀有なこと(珍しいこと)であったのであります。
その昔、ご府内でこのような大名家の改葬工事中をのぞき見た者は捕えられ、やがて死罪となったと云う、遺体の尊厳さを取扱った記事もあり、又私自身、私共の家自体信仰心の篤い(信仰心の強い)家柄でありましたので、仏罰を信ずる方(ホウ)で、改葬中一度も写真を撮って記録を残す気になりませんでした。
此処に春田医院の院長さんが(写真に)撮られたもの、ほんの一部ですがあります。
尚、此の院長さん棺桶の中のものを(題目などを書いたものと思われる)ご自分の処の仏壇へ入れた処、大変な臭いがして、家人に叱られたと申しておりましたが、これも仏罰でありましょうか。
この稿終り