6代目庄五郎トーク
第10回だんご寄席 谷中霊園案内(第一部)
2002年2月13日
№1〜№47
東京都内、23区の内、都の霊園は青山、雑司ヶ谷、染井と此の谷中の四ヶ所であります。如れも明治10年前後に東京都に上地され爾来、東京都公園課管理事務所の所管となって、昭和32年以降は「都市計画公園」として指定された為、返還地の再貸付は出来なくなって現在に至ります。
都内四霊園の墓地貸付総数は34,000ヶ所で、既に更地となった所は、3,287ヶ所(10%弱)と謂われます。これらの霊園はこれ?に震災や戦災や寺の事情で地方へ改葬されたり、無縁墓地となって消滅する場合もありましたので、将来の資料として長く記録することも意義の深いことであります。
さきに谷中霊園の中にある「徳川家婦人墓地」についてご案内いたしましたが、此の度は同じ霊園の著名人墓地の内、特に史的・文化的系累を選んでご案内いたします。
また、私どもは唯に墓域を散策するのではなく、しばし墓標の前に佇み、その人の人生に思いを馳せ、冥福を祈るのを功徳とし、そのような趣意で霊園を訪れるのであります。
(1) 天津乙女 M38〜S55 東京生まれ 本名「鳥居栄子」大正2年宝塚少女歌劇団入団、62年間の舞台生活を通じて宝塚歌劇団の至宝と云われた舞踊の名手で今に知られております。昭和8年以来の「鏡獅子」が代表作と云われます。
(2) 南摩羽峰 文政6年会津若松城下に生れ、幼くして藩校「日新館」に入り、頭角を表わした。25才の時藩命で江戸昌平黌に学ぶ。文久2年から6年間幕命で統治の目的で樺太に赴く。慶応3年帰藩した。戊辰戦争では初め藩命で大阪に潜行して形勢を探った。やがて帰藩して若松城が陥落し、囚われて高田藩に幽閉の身となる。維新後は京都で學職につき、次いで太政官・文部省の役人を経て帝国大学教授となる。M42年87才で没す。
(3) 中村仲蔵 文化6年江戸に生まる。父は富山藩の足軽だったが江戸浅草の旅館の番頭となる。仲蔵は2才より母の手ひとつで育ち、文化11年五代目中村伝九郎の門弟となり、諸国をめぐって天保9年中村歌右衛門と共に江戸に入る。嘉永6年「世話情浮名横櫛」の蝙蝠安が出世役となり、爾来諸悪の名人として劇壇の古老となって重きをなした。芸道にもくわしく、文筆にも長じていた。
(4) 高橋お伝 嘉永3〜明治12 上州(群馬県)前橋生れ。14才で結婚、不治の病の夫を毒殺し、他の男に走り各地を放浪、悪事を重ねた。明治9年古着屋「後藤吉蔵」をだまし殺害、200両を奪う。M12年市ヶ谷監獄で斬首刑に処さる。仮名垣魯文の小説や演劇の題材となる。魯文等が建てた石碑は桜並木の側、公衆便所の傍に建つ。根府川の石に辞世の歌「しばらくも 望みなき世にあらむより 渡しいそぐや三津の河守」とある。本人のかどうか疑わしい。
(5) 川上音二郎 元治元年博多の黒田藩御用商人の家に生れた。維新で没落したので仕方なく大阪・東京へ出てさまざまの職を転々としたが、のち自由党員となり政府攻撃の政談演説で名をあげました。のちオッペケ・ペー節で更に有名になり、日清戦争が勃発するや戦争劇を連続上演して人気を集め、遂に川上座を結成し、M32年妻の貞奴と渡米巡業、シェークスピアの「オセロ」を上演し日本の近代劇運動の先駆者と云われた。霊園事務所前道路の側にフロックコートにステッキ・シルクハットの等身大の銅像が、3M大理石の台座の上にあったが、戦争(第二次大戦)中に金属回収で供出され、現在は台座のみ残っている。
(6) 相馬大作 東北の南部藩と津軽藩はお隣り同士の藩であったが、もともと津軽藩主津軽為信は南部家の家老を務めていたが、これが小田原の役の折、戦功めざましく、秀吉に認められ、独立して津軽藩を樹てた。従って津軽は主家を裏切った不届きの奴と従来より両藩は対立感情がありました。
その200年の恨みの中に育った世臣(代々の家来、譜代の臣、ここでは忠臣)相馬大作は主家の恨みを晴らす可く、津軽藩主を近くの矢立峠で襲撃しようと計画した。然るに此の計画が事前に発覚し、相馬大作は江戸で捕らえられた。
而して千住十塚原で斬首、獄門に処され、34才で刑死をいたしました。世にこれを南部騒動或は桧山騒動と云う。この事件は計画だけで未遂に終っているが、当時は斬首と厳しい判決であった。
(7) 澤田正二郎(俳優)通称(一般に通じる通り名)沢正 明治25年滋賀県大津に生れた。開成学校を出て、のち早大英文科卒。島村抱月・松井須磨子の芸術座に加わったが、大正6年同志と「新国劇」を結成、そして迫力ある殺陣(たて)が評判を呼び、たちまち人気劇団となった。
大正10年明治座に出演(月形半平太)(国定忠治)などの剣劇に独特の殺陣を活用して商業劇として大成功し更に人気を博した。当時(沢正)(沢正)と大衆に親しまれ、大正のヒーロー(英雄的存在)であったが、新橋演舞場に出演中、中耳炎がもとで37才で急死した。日比谷音楽堂での大衆葬には10万人が会葬した。蛙に柳を家紋としたので、蛙の水盤(蹲い)と柳の木を植えたので、長い間五重塔の前を通ると反対側に柳が一本目印となって沢正を思い出したが、今は無い。
(8) 江崎礼二 著名人としての経歴資料に乏しく(写真家)としてのみご紹介。
(9) 長田秋濤(おさだしゅうとう) デュマの「椿姫」の翻訳者となっておりますが、一般には小山内薫の先輩に当る劇作家として名が知られておりました。M4年生れ(静岡)の人。学習院卒・渡英・ケンブリッジ大M26年帰朝、30年伊藤博文の秘書として欧米視察、帰朝後、早大教授のかたわら演劇革新運動を興し活躍し、またシンガポールでゴム園を経営し、本邦初ケーブルカーを導入するなどで名が知られた。大正四年45才で没。
(10) 花柳寿輔(初代)文政4年江戸芝神明(現モノレールの先大門のところ、大神宮のあたり)に生る。はじめ歌舞伎俳優として修業し始めたが廃業、6才の時四代目西川扇蔵について踊りを習い、8才で市川団十郎に入門したが、独立して花柳流をおこし、幕末から明治半ばにかけて名振付師として西川流・藤間流を凌ぐ勢いであった。尾上菊五郎の振付をした。代表作は(どんつく)(土蜘蛛)(戻橋)(連獅子)(羽衣)等。M36年83才没。
(11) 小野梓 嘉永5年土佐の郷士の子として生る。戊辰戦争の折、会津征討に参加、翌M2年元幕府の学問処聖橋昌平黌に学ぶ。M4年アメリカ遊学、引続きM5年大蔵省の留学生に任命されロンドンに渡り、(銀行)(理財)(政治学)を学びM7年帰国。太政官少書記官・M14年大隈重信の下野に従い東京専門学校(現早大)を創立、のち出版を手掛け冨山房を開設したが、結核の為35才で早世した。
35才といえば子規も35才で亡くなりました。正岡子規に関して最近のニュースをご案内いたします。先月半ば子規庵から電話がありまして、此の正月子規庵の庭の一隅にある倉を開けて整理中、子規居士の真筆になる「仰臥漫録」が見つかったので見に来るようにとのご案内でありました。何で今頃と思いますが、今まで同書は後に残った母堂と妹りつさんの生計の為、各所へ四散(売却)したとの風説でありましたこと、及び蔵の中には電気設備無く(昔・書道博物館も同じ)今までの整理では見付からなかった様子。今後は設備の整った国会図書館へ保管を頼むとのことでありました。尚同書には病篤くなった(M34年9月書出し)居士が当店の団子について書いた一文が収録されております。
(12) 加波山事件 加波山事件とは自由民権運動事件の一つでM19・9・23茨城県加波山で自由民権取得の旗を立て決起した16名があった。一行は初め先ず軍資金調達の為、山を下りて地元警察を襲い、次で豪商を襲って金品を奪った。再び栃木県庁と監獄を襲撃せんと下山し警官隊と衝突し、次々に捕えられ強盗及び故殺の罪で裁かれ国事犯とはならなかった。
従って
琴田岩松 23才 死刑 東京遊学後帰郷、雑誌(三陽)編集長
小針重雄 21才 死刑 白河の大庄屋に生れ、東京大学医学部在
学帰郷
三浦文治 34才 死刑 会津自由党幹部
横山信六 20才 死刑 明治法律学校在学中帰郷
以上四名の墓が天王寺の隣地安立院前に建っている。
現福島交通の小針家の一族に関係ある如く
福島交通社長の小針家で建立したものである。
(13) 赤井景韶(かげあき) (明治初期の自由民権家)越後髙田藩士の子。のち神奈川県巡査、のち帰国して代言人を開業、高田に自由党が結成せらるや入党して党務に尽力、M16年陰謀事件が起るや内乱罪で下獄、翌年石川島監獄を脱獄、逃亡中、車夫に怪しまれ止むなくこれを刺殺した為、殺人犯としてM18年死刑宣告され同年刑死27才。五重塔跡地傍らに常々花が手向けられる。墓に竝んで自由民権同志の建てた碑がある。故人の事績を顕彰し死を衷んだ碑文が彫られている。
(14) 佐々木信綱 明治5年三重県に生れる。国文学者、やはり歌人の父と同じく帝国大学教授、万葉集などを初めて活字本とした。「日本歌学全集」を父から引継ぎ編纂した。S12年文化勲章受賞、S38年91才没
(15) 松田秀雄 嘉永四年彦根藩士の家に生る。上京し。M22年の市制町村制に応じ、神田区議会議員、M24年東京府会議員に選出さる。M31年東京市長に推挙さる。M39年56才没 (谷中霊園内で大きい方の墓)
(16) 小平浪平(おだいらなみへい) M7年栃木県生れ、東京英語学校から始まりM33年東京帝国大学工科電気工学科卒、初め東北秋田十和田町に第二発電所建設に従事、東京電燈会社を経て久原鉱業所日立鉱山に入社、M41年資本金9万円で日立鉱山から日立製作所を分離独立させ、交流発電機及び電線などを製造し社長に就任、戦時中は軍需会社に指定された。戦後の財閥解体で公職追放されたが、S26年解除され再び日立製作所相談役となり、日立王国を築いた。旧五重塔跡近く安立院前
(17) 川上冬崖(とうがい)信濃の農家の出身、18才で上京、南画を四条流の大西椿年(ちんねん)に師事、安政四年絵図調出役、開成校画学教官、維新後第一回内国勧業博の審査(洋画)主任をつとめた。M14年参謀本部秘密重要地図紛失事件に関係し、外人に売ったとの風聞(うわさ)が伝わり、それを憤って熱海で自殺した。年55才
(18) 佐藤尚中 幕末の文政10年下総佐倉生れ。天保13年佐藤泰然に師事、のち師の養子となり二代目佐倉順天堂主となる。万延元年、長崎へ遊学し、ポンペに師事、文久2年佐倉へ戻り、済衆精舎(さいしゅうしょうじゃ)と病舎(入院可能施設)を開設し、医学の教授(大学)と病の診療(病院)を行った。M6年東京下谷万年町に私立順天堂を開設、M8年現地点湯島に移転した。
(19) 長谷川一夫(俳優)初め林長二郎でお馴染みであります。M41年京都生れ。7才で初舞台を踏み初代中村鴈治郎の門に入り、林長二郎を名乗る。関西歌舞伎界で活躍したあと映画界へ入り、松竹映画「稚児の剣法」でデビュー。衣笠貞之助監督にかわいがられ、その美貌で人気を博し、松竹時代劇の黄金時代を築いた。S12年東京に移籍し、此の転籍のトラブルで顔に傷つけられた。のち大映に移り、晩年は東宝歌舞伎の舞台に多く立った。
主な出演作は「雪之丞変化」「お夏清十郎」「鶴八鶴次郎」戦後は「源氏物語」「地獄門」など。テレビのNHK大河ドラマ「赤穂浪士」の大石内蔵之助の役でテレビ時代でもスターでありました。谷中墓地のメインストリートの角の墓は(旧五重塔真前の角地)中高年女性ファンを集め、常に生花が絶えません。
そこで長谷川一夫は生前墓相の研究家であったかどうか分らぬが、墓域を囲む礎石(石囲い)を五寸程の高さに抑え、赤土土盛の中に極く小型の宝塔造り供養塔壱基と胴長の普通型小型墓石壱基を竝んで配置するなど、墓相の諺に一致している箇所が認められる。(普通の墓より小さくミニチュアのようだ)
(20) 小中村清矩(きよのり)三河の人。我が国初の文学博士の気宇壮大にして豪放磊落な生涯 原田次郎八の子、文政四年江戸麹町に生れた。幼少にして父母を失い、小中村氏に養われたが商業を好まず学問の道を選ぶ。慶応の初め林大学頭の命により和学講談所に出仕、明治2年大学中教授・太政官(制度取調)を命ぜられた。神祇制度の調査、国史の編纂に関係し、M12年以降文部省の「古事類苑」の編集に従事、文科大学教授、学士院会員、わが国初めての文学博士(M21)となり、勅選の貴族院議員となる。
M28年、75才で本郷の自宅で没す。エピソードとしてM23年帝大の和文学科生は「和田万吉」と云う青年一人でありましたが、或日、小中村博士の令義解(リョウギゲ)の講義を聞きながらいつの間にか眠りに落ちてしまった。しばらくして目を覚ますと、博士は「お目が覚めましたか、それでは続きをやります」と云ったと云う。当時の気宇壮大、豪放磊落の人の心を表わしたフィクションであったかも知れないエピソード。
(21) 福地源一郎 号は桜痴、天保12年長崎の医師福地苟庵(くあん)の長男として生れた。明治期の新聞人・劇作家と云われます。はじめ江戸幕府の外国奉行支配通弁(通訳)・御用雇に出仕、二度随員として渡欧、明治3年「江湖新聞」を発刊したが発禁となり投獄される。M4年岩倉遣外使節(外国派遣使節団)に従い欧米視察後帰国、M7年「東京日日新聞」主筆となり、政府支持の立場で自由民権運動を批判し、M15年「立憲帝政党」を結成した。のち劇作・小説・史書の著述に専心した。M37年衆議院議員となる。脚本に「春日局」「侠客春雨傘」(おとこだてはるさめがさ)史書に「幕府衰亡論」あり。
(22) 玉乃世履(たまのせいり)文政8年岩国藩士の家に生れたが、のち儒者「玉乃九華」の養子となる。藩命で上京、梁川星巖、斎藤拙堂らに学び、頼三樹三郎、梅田雲浜らと交わる。安政2年帰国して藩校「養老館」教授、洋式農兵を編成し、世に「第二次長州征伐」と云われた慶応2年の幕長戦にこれを率いて奮戦した。
ご一新後(徴士)(民部卿大丞)(東京府権大参事)(司法権大判事)と出世した。M11年大審院院長(現在の最高裁判所長官)M19年大審院院長に再選され、今大岡越前と称えられた。M19...8.19公用の書類をすべて処理して深夜自殺した。62才。霊域には巨大な碑石の裏側にこれ又巨大な墓石が建っている。その死因は重病を苦にしたとも大官の罪をあばくに忍びなかったとも云うが、真実は不明であります。
(23) 稲垣浩 昭和期の映画監督・東京生れ。「天下太平記」で監督デビュー。現代感覚の時代劇に定評があり、代表作「海を渡る祭礼」S16、「無法松の一生」S18、「宮本武蔵」S29。尚無法松はS33年再映画化してベネチェア映画祭にグランプリを受賞した。
(24) 間島冬道 文政10年尾張藩士の家に生れた。尊皇攘夷派の志士となり、藩主徳川慶勝(よしかつ)を助けて国事に奔走いたしました。京都に上り近衛公に接近したが、安政の大獄で藩主と共に蟄居させられた。明治元年(慶応3年7月から)大宮県知事を任命されました。のち官を辞して「十五銀行」支配人、M14日本鉄道会社検査役を務めた。歌道の方では明治2年「春風來海上」のご題詠進で歌名をあげ、明治19年宮内省御歌所寄人となる。M29年没64才。
(25) 獅子文六 本名「岩田豊雄」M26年横浜弁天通に生る。父は絹織物商。慶応義塾中退。父の岩田商会が没落したので、文学にふけり、学業を放棄した。大正11年渡仏、演劇を志し各地を遊歴、帰国後、岸田国士と新劇研究所を作り、翻訳や演出に活躍、S12年劇団文学座を作るが、演劇(新劇)では生活が出来ず小説を書く。岩田豊雄の名で発表した「海軍」は戦争文学の代表作。戦後の日本を描いた「自由学校」「やっさもっさ」「娘と私」も評判をとりました。最初の妻、フランス人マリ・ショウミィーとの間に一女あり三番目の妻岩国藩主吉川家令嬢松方幸子との間に一男あり。日本芸術院会員・文化勲章受賞したが、受彰から一ヶ月後急死した。時にS44年77才なり。
(26) 塚田秀鏡 (彫金家)上州館林秋元藩の藩士で和泉流鞘巻の大家(彫金家)土肥義周(よしちか)の二男として江戸の神田に生る。後タク鐸師(鈴・鐘を作る彫刻)塚田直鏡(なおかね)の養子となる。26才で天皇太刀の彫刻をした。M14年第二回勧業博に鉄地に蟹を彫って出品、アメリカのセントルイス博覧会で金賞を取る。大正7年湯島の自宅で没す。71才。
(27) 阪谷朗廬(さかたにろうろ) 文政5年備中国(岡山県)に生る。幕府代官の下役であった父に従い大阪に行き大塩平八郎に学ぶ。のち江戸に出て古賀代庵に入門して文名をあげ、26才で帰郷して桜渓塾を開く。明治元年広島藩に招かれ教育に当り明治3年藩侯に従って上京、陸軍・文部・司法各省に歴任したがM14年60才で没。
(28) 井上蘭台 (儒学者)宝永2年江戸材木町に生る。父は6代将軍家宣に仕える奥医師、昌平黌で学び、のち備前岡山の松平候に招かれ儒学を講義した。宝暦11年没57才。
(29) 石川千代松 江戸の旗本石川家の二男に生る。維新後、徳川家移封について静岡に移住。明治5年帰京して開成学校に学び東京帝国大学理学部生物学科を卒業、M18年ドイツに留学、帰国後帝大教授「進化新論」など著作多し。S10年学会参加中台北で客死した。75才。
(30) 上田敏(びん) 英仏文学者 旧幕臣上田綱二(つなじ)を父としてM7年静岡に生る。東京帝大文科を卒業し、京都帝大教授となる。英文学者であったが仏文学にも詳しく、翻訳家・批評家としても名あり。大正5年43才没。五重塔跡地側地に墓あり。
(31) 水野年方(としかた)(浮世絵師)慶応2年江戸神田紺屋町に生れる。左官を家業としたが幼少より画を好み、浮世絵師「月岡芳年」の門に入り、風俗画、美人画、戦争画で人気を博した。鏑木清方の師でもある。M41年43才で没。
(32) 谷田部良吉(やたべりょうきち)嘉永4年伊豆韮山に生る。M2年開成学校教授補、次いで大学中教授、M3年高橋是清の斡旋で森有礼に従い渡米、コーネル大で植物学と数学を学び帰朝、帝大教授・小石川植物園長・東京高師校長・上野帝室博物館長を歴任。わが国最初の理学博士。M32年8月7日鎌倉で遊泳中事故死49才。
(33) 出羽海 M6年水戸に生れ、M24角界入り、M28常陸山を名乗る。M36年19代横綱となる。優勝七回、大正3年引退して年寄出羽海谷右衛門を名乗り、大正4年初めて力士団を率いてアメリカ巡業に出かけた。
(34) 佐藤泰然 順天堂大学病院の創始者。佐藤尚中の義父
(35) ニコライ 1836(天保7年)ロシアに生る。ゴローニンの「日本幽囚記」を読み、日本伝道を志す。文久3年箱館領事館付司祭として来日、M2年帰国、M4年再来日。翌年宣教の拠点を東京に移し、M13年神田駿河台にニコライ堂を建設、M39年大主教となる。日露戦争の時はロシアの捕虜の慰安に活躍(当時は比較的国際法が遵守されて虐待などなく、捕虜に対して国内でも大変大らかだった)。M45年76才で亡くなった時、明治天皇より生花が贈られた。
(36) 依田学海 明治期の漢学者であり、劇作家でもあった。天保4年下総佐倉藩士の次男として江戸八丁堀に生る。長じて経史(儒教の基本的歴史的教書)を学ぶ。漢学者となる所以なり。のち帰藩して中小姓、やがて儒官、代官、江戸留守居役。明治元年京都に上り勤皇開港論から国事を述べ、新政府となるや佐倉藩権大参事、木戸参議の下で地方官会議書記官、文部省(権少)書記官と歴任したが、官を辞して著述に親しみ或は演劇改良にうちこんで九代目団十郎・五代目菊五郎を指導した。また川上音二郎の為に戯曲を書いた。M42年没77才。
(37) 菊池大麓(だいろく) 安政2年江戸生れ、祖父はみまさか美作(備前岡山の北)津山藩の蘭学者。6才で蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に入り蘭学・英学を学ぶ。12才で藩命により英国留学、理化学を学び、明治元年帰朝、M3年再びイギリスに留学を命ぜられ、8年間滞在し数学・物理学を修め、M10年帰朝して帝大教授となる。M21年刊行した「初等幾何学教科書」は明治末まで中等教育で使われた。M21理学博士、M23年貴族院議員、M31年帝国大学総長、M34年桂内閣文相、M42年帝国学士院院長、枢密顧問官と総べてを学力(実力)で栄誉を極めた。大正6年没63才。正二位勲一等男爵。
(38) 菊池容斎 日本画家。江戸下谷に生る。初め髙田円乗につき狩野派を学ぶ。後、土佐派を学び、写実味を加えた歴史画に新機軸を開いた。M7「土佐日記絵巻」「南朝五十四士図」「蒙古襲来絵巻」を描いた。M10年の内国勧業博で竜紋章を受け、明治天皇が賞賛し「日本画士」の称号を賜わる。M11年神田で没91才。
(39) 中島歌子 (明治の歌人)弘化元年江戸日本橋生れ、安政5年水戸藩士・林忠左衛門と結婚したが死別、加藤千浪に和歌を学んで歌塾「萩のしゃ舎」を開き、樋口一葉・三宅花ほ圃(歌人・小説家・閨秀作家の先駆者)らを育成、主として上・中流婦人を教導した。M36年63才没。当日勅旨を以て従七位に叙された。
(40) 外山正一(とやままさかず) 明治の教育者。嘉永元年幕臣の子として小石川柳町に生る。幼い頃から聡明で蕃書調所で英学を学び、16才で開成校(帝大の前身)教授方となる。慶応2年幕命で渡英、帰朝後外務省〈弁務少記〉となり、M3年森有礼に誘われて渡米、ミシガン大で化学、哲学を学ぶ。M9年帰国、東京開成校教授、M30年東京帝国大学総長を経て、M33年伊藤内閣の文相となる。「新体詩抄」を刊行し、スペンサーの進化論・及び哲学の紹介、漢字の廃止、ローマ字の採用等と各方面の啓蒙活動を展開した。稀有の人であります。
(41) 頼母木桂吉 (東京市長・衆議院議員)広島県生れ。東京高等学校(一高)卒業後、米国に留学、帰国後報知新聞記者、大正4年衆議院議員当選、爾来九回当選。S11年広田内閣逓信大臣、S14年第17代東京市長。翌15年81才没。
(42) 松平家 讃岐高松藩主。初代松平頼重は水戸藩初代徳川頼房の長男、ただし頼重は側室の子。水戸家は正室の子である次男光圀が継ぐ。12万石。第十一代藩主松平頼聡(よりとし)は天保5年生れ。松平家は徳川親藩の為、官軍と戦ったため官位剥奪されるが、のち献金により復権。版籍奉還後M2〜4年高松藩知事として東京在住、伯爵。
(43) 石原純 (物理学者・歌人)M14年東京生れ、東京帝大理科理論物理学科卒。ドイツ留学、帰国後教授、「相対性原理・万有引力論」の研究により大正8年学士院賞受賞。大正10年歌人原阿佐緒との恋愛問題の為、教授を辞職。大正11年アインシュタイン来日の際その解説・紹介者として全国を遊説。
歌人としても有名で大正13年所属するアララギ派を脱退し(国語自由律)(新短歌運動)を興す。S22年没66才。
(44) 宮城道雄 筝曲家(明治~昭和にかけてのお琴の大家)M27年神戸に生れた。生後200日で眼を患い7才で失明した。生田流筝曲を中島絃教に習い、12才で師の代稽古をつとめた。S12年東京音楽学校教授。S23年芸術院会員(越天楽・さくら変奏曲・春の海が代表作)S31年6・25演奏旅行の途路、愛知県で急行銀河より転落死。
(45) 岸本辰雄 (明治大学の創始者)嘉永5年鳥取藩士の子として生る。蘭(オランダ)式兵法を修めM3年上京、司法省明法寮に学ぶ。M9年フランスに留学、M13年帰国、司法省に入り参事官、更に大審院判事など歴任す。M14年明治法律学校を創設し、のち組織を改めて明治大学となると学長に就任した。M45、61才没。
(46) 箕作秋坪(みづくりしゅうへい) 蘭学者 文政8年津山藩の儒者菊池士郎の次男に生る。19才で江戸に出て箕作阮甫(げんぽ)に入門、蘭学を修む。師の次女と結婚し養子となる。嘉永6年幕府天文方の翻訳員となる。安政2年蕃書調所の教授となりました。 文久3年遣欧使節福沢諭吉らに随行、慶応2年露国(ロシア)に行き、樺太の境界を定める使節にも随行、明治元年森有礼、中村正直らと明六社(めいろくしゃ)を興し人材教育に当る。学士院会員、教育博物館長、東京図書館長。M19年没62才。
箕作阮甫
‖
箕作秋坪長男(早世)箕作奎吾 イギリス留学 大学少博士
次男菊池大麓 文部大臣 東京帝大総長
‖
菊池家養子
三男箕作佳吉(かきち)東大教授 理学博士
四男箕作元八 東大教授 文学博士
長女箕作直子 理学博士坪井正五郎と結婚
(47) 松浦佐用彦(さよひこ) (大森貝塚のモースの助手)高知県人である。東大理学部生物学科の第一回生。卒業を待たずM10年22才で夭折した。エドワード・モース博士の愛弟子である。大森の貝塚発掘には常に松浦が随行した為に東京大学有志により悲劇の人松浦佐用彦の墓が建立された。
第一部案内(終)
付録(余談)
今月新橋演舞場で勘九郎、藤山直美など出演して「地獄めぐり」外題で大評判と仄聞いたしました。今月の始め開演と同時売切との事で、これは以前此の席で案内したことのある、私ども前のお寺の裏と云ってもラングウッド寄りでありますが「油屋熊八」さんが住んでおりました。此の方ある日(明治末)相場師でスッテンテンになって夜逃げしたとのことでありましたが、後年風の便りに流れ流れて九州大分の別府温泉で大成功収めたとのこと、これ又仄聞いたしました。昭和の初め訪ねていった先々代はどうしてどうして、大した温泉旅館(杉ノ井ホテル)と驚嘆、これを聞く者、皆驍勇を賞した。