6代目庄五郎トーク
第12回だんご寄席 幕末落首撰
平成14年10月30日(水曜日)
幕末落首撰 原文
ヤレヤレ、此のせつ世上の有さま、きいてもくんねへ、今度の久世つは、皆様御存じ、いはづとよけれど、あんまりあきれて、片時へんじも、安藤がならない、去年上己に、首をとられた、坊主がへりの、悪党野郎の、跡をしたって、強勢行ふ、欲心増長、臆病野郎め、異人をあつめて、諸人をなやまし、慈悲といふ事、みじんも内藤、ウソ口空か本多か、しらねいけれども、去年中から、京都をコシラ拵え、上の御金を、四五萬遣し、御機げん直して、縁組調え、御下向一段、まづまづ〆たと、思ふ間もなく、御下向所か、御威光強くて、水野しらずに、御別れなさるも、御遠藤いか、なんだかしらぬが、今更跡部も、先へもいかない、夫も構ず、欲心がわいて、後の大事は少しも構はず、当座遁れな、鼻先思案で、トリゴト取事バカ計りは、少しものがさず、世間を恥ずに、一萬石をば、野面で〆込み、それはまだまだ、先例有るので、仕方もないけれど、去年は半分、ミクラ御蔵で貰た、あんまりあきれて、物が言れぬ、はたのヤカラ族も、をべっか過ぎるぞ、此節がらだよ、どふしたこんだよ、今更世間の、ヒトクチ人口フサギ防に、拝借金だの、下され金だの、御蔵をへらして、上のしんしょの、へるのは猫ばば、知恵なし連中の、欲ばり野郎に、御政事預けちゃ、片時置れぬ、根岸の先生、駿河の親分、早く出しかけ、一変させねへ、今年一つぱい、其儘置たら、今に見なさい、大事がおこるぞ、早く了簡、とっくりキメ定る、水戸の主と、薩摩を頼で、異人もぶっちめ、叡慮を安んじ、御代を豊に、下をあはれみ、万民安堵の、良策頼ぞ、ホウヲイホウヲイホウイホウイ
「花吹雪くまて隈手のちり迺塵」 下巻
幕末落首撰
皆様ご承知のように今を去る150年の昔、嘉永6年6月米国の提督ペルリが軍艦4隻で浦賀に参りまして、しきりに我が国の開港を迫りましたが、12代将軍家慶は病極めて篤く、死の床にありましたので、代って大老を筆頭とする幕閣によって、翌年の安政元年、遂に「日米和親条約」が締結され、続いて年内に「日英」「日露」共に通商条約が調印されるに至りました。
これによって
1.江戸幕府と京都の朝廷との確執が起り
2.幕閣と公卿との確執が起り
3.時の大老井伊掃部頭(直弼)と徳川斉昭との確執が相次いで
起りました。
その結果、井伊大老を中心とする幕閣による尊王攘夷論者に対する弾圧が激しくなり(安政の大獄)、これに対する世評は悪評嘖々たるものが募るばかりで、今日のように「言論の自由」な時代ではありませんから、庶民は僅かに皮肉な「当て付け」の抗議位しか出来ない時代でありました。今日はその抗議文とも云えるものを採り上げて見ました。
お配りいたしましたものは「幕末落首」の内、花吹雪隈手迺塵(くまてのちり)下巻という古文書から抜き取った一文でございます。
実は文庫本からの転載で読み易くする為、拡大コピーいたしました所、かえって読みにくくしてしまいました。
一度、通しで下読みいたしますので、不明の字体、及び文体をご判読下さいますようお願いいたします。
別紙落首全文素読
以上の落首・落書・落文、公然と云えないものを、文書にして(貼り出し)(配布し)(落して置く)ものでございますが、こんな短いものもございます。
上方の贅六共がやって来て東京(とうけい)などと江戸を(け)なしけり
大意:関西の丁稚小僧がやってきて、新しい地名をつけて江戸という伝統ある地名を貶しやがった。(明治2〜3年のこと)
またこんなのもございます。
上からは明治だなどと言うけれど(曇りなく明るく天下が治まる)
治まる明(めい)と下からは読む(下から読んだらまつりごとはうまくいかない)
皆様ご承知のように、明治のご一新と云うのは我が国の比類のない大改革でありました。これ丈の事件でありますから、事、此処に至る?の裏面史に入る世上の出来事は数限りなくあったのでございます。此の一文は安政から万延にかけて140年昔の情報活動の一例で、特にこれは彼の高名な「清水次郎長」と一緒にご当地地元の「根岸の先生」と云う(平田篤胤)−尊王攘夷論者も引合に出されると云う珍しく面白い落首として取上げたのでございます。
ところで「落首」と云うのは為政者(政治家)や時事問題(世間)を諷刺し(欠点を取上げ)嘲笑し(あざけり笑い)「何とかしなさいよ」と云う「落し文」
又は「落書」の類いで、これが正にそのものであります。
それでは此の文面を頭から読み下し乍、夫々に亘って解説をして参ります。
また「隠し文」とも申します。ここでは老中、若年寄、諸国の藩主。寺社奉行等々30数人の名を潜めてギャグの引合に大変巧妙に表わしております。
出来事に感じた言葉 この頃の世の中の有様は まあ聞いても下さいよ
感動詞
ヤレヤレ、此のせつ世上の有さま、きいてもくんねへ
今度のぐち話(口説)は、皆様ご存知だから、云わなきゃよいのだけれど
久世:老中久世広周(ヒロチカ)は、初め公武合体を称えていたが攘夷運動が起り、失政を理由に罷免された
今度の久世つは、皆様御存じ、いはづとよけれど
飽きれ返って 少しの間も返事(変事)も 安堵(安藤)も出来ない
安藤:陸奥平藩主–老中安藤信正 麻布で米公使館員ヒュースケン暗殺される、品川のイギリス公使館襲撃事件(水戸藩士)などの相次ぐ変事に、水戸藩士を重く罰したので、反感を買い、此の失政で坂下門で斬られ負傷、老中罷免
あんまりあきれて 片時へんじも 安藤がならない
己未(つちのと・み)安政6年上半期(夏前)茶坊主上りのゆすりたかりの常習犯ご存知河内山宗春
去年上己に首をとられた坊主がへりの、悪党野郎の
跡を追って 権力を振廻す 欲ばりでのぼせあがってその上 臆病な奴め
跡をしたって 強勢行ふ 欲心増長 臆病野郎め
横浜・品川・麻布に外国人を住まわせて、江戸諸民を心配させ 内藤:信州村田藩主–大老内藤正縄(マサツナ)安政の大獄で志士弾圧、安政6年吉田松陰・橋本左内処刑、志士の恨み骨髄に徹し、諸大名の反撥で失政、老中罷免。情け心が少しも内藤(無いと=無いではないか)
異人をあつめて 諸人をなやまし 慈悲といふ事 みじんも内藤
うそかほんとか 知らないけれど 去年のうちから京都へ赴いて御縁組の段取をこしらえ
本多:本多忠紀(タダトシ)−寺社奉行→若年寄
口空(ウソ)か本多か しらねいけれども、去年中から 京都を拵(コシラ)え
公方様のお金を四〜五万両使わして 余り乗気でなかった孝明帝の妹御和宮と14代徳川家茂のご縁談話を調節(うまく取計らって、御降嫁が一段落した万延元年
上の御金を 四五萬遣し 御機げん直して 縁組調え 御下向一段
まずまずうまく行ったと思ったのも束の間。御降嫁どころか 公武の権力強くて
まづまづ〆たと 思ふ間もなく 御下向所か 御威光強くて
水の波紋に綾があるように問題があるのを知らず、本来は御縁遠い(御遠藤い)のに、遠藤の顔がよかったかどうか知らないけれど
水野:唐津藩主(浜松藩主)水野忠邦(タダクニ)天保改革、諸大名の反撥で老中罷免
水野知らずに:かねてから熾仁(タルヒト)親王と和宮がご婚約なさっているのを。江戸の水野は知らずに、お二人はお別れなさるもなさらぬも構わず
遠藤:遠藤允信(サネノブ)仙台藩士、尊王攘夷を主張して京都御所へ伺候していた。維新後大参事、のち塩釜神社宮司
水野しらずに御別れなさるも 御遠藤いか なんだかしらぬが
御降嫁の申入れを、今更後にも引かれない そんなことは構わず 欲心が湧いて
跡部:跡部良弼–大阪町奉行、大塩平八郎事件で強硬解決
大塩平八郎:町奉行所吟味役、困窮者救済の為暴動を起し、破れて自害
今更跡部も 先へもいかない 夫も構ず 欲心がわいて
後のことはどうなれ山となれで、当座しのぎと 軽い考えで、実入りのある計りごとは
後の大事は 少しも構はず 当座遁れな 鼻先思案で 取事計(トリゴトバカ)りは
絶対忘れず 世間のことは一切気に止めず 一万石のご加増を 恥知らずの顔ですましている
少しものがさず 世間を恥ずに 一萬石をば 野面で〆込み
それはまだまだ 先の例があるので 仕方がないけれど
それはまだまだ 先例有るので 仕方もないけれど
去年は結納の半返しで 蔵人所(朝廷の役人)から、和宮と熾仁親王の先のご婚約をこわしてまで ご降嫁を懇願したのに拘らず、貰うものは貰った 飽きれ返って言葉もない
去年は半分 御蔵(ミクラ)で貰った あんまりあきれて 物が言れぬ
他の仲間も へつらいが過ぎるよ 此の時節にさ どうしたことだよ
はたの族(ヤカラ)もをべっか過ぎるぞ 此節からだよ どうしたこんだよ
今更世間の人の口封じに フトコロの寂しい朝廷が借金までして お下賜金を繕って整え、天子のフトコロを減らして
今更世間の人口防(ヒトクチフサギ)に 拝借金だの下され金だの 御蔵をへらして
その上、上様(将軍)安政6年14代家茂(安政5年7月13代家定死去)の財産(フトコロ)の減るのも知らん顔 良識も知恵もない連中の 欲張り野郎に
上のしんしょの へるのは猫ばば 知恵なし連中の 欲ばり野郎に
政りごとをやらせちゃ 少しの間も其の侭に出来ない 根岸の先生 駿河の親分
根岸の先生:平田篤胤–本居宣長に師事、尊王攘夷を説き、京橋に私塾を開く。門弟550名、養子平田銕胤(カネタネ)明治天皇侍講、要職。一本橋の北二丁、現・竹の台高校
の処に居た。国学者実力者(根岸・井戸田・杉崎)
駿河の親分:任侠の人と云われる、かの清水の次郎長・山本長五郎
御政事預けちゃ 片時置れぬ 根岸の先生 駿河の親分、
すこしも早く乗り出して 事態を改革させなさいよ 今年中も この侭でいたら
早く出しかけ 一変させねへ 今年一ぱい 其儘置たら
今に見ていらっしゃい 大事件が起きますぜ 早く考えを 十分に定めて
今に見なさい 大事がおこるぞ 早く了簡 とっくり定(キメ)る
水戸の徳川斉昭(ナリアキ)と薩摩の島津斉彬(ナリアキラ)此のお二人が頼りで
外国人を打ちくだき 天皇の御心を安んじ(安堵させ)
徳川斉昭:水戸藩主、諡名烈公 15代将軍徳川慶喜の父、尊王攘夷を説き、幕府に謹慎させられた。水戸学の泰斗、海防。改革に心血を注いだ。大河ドラマ「徳川慶喜」に見られるように気性の激しい、文字通りの烈公
島津斉彬:鹿児島藩主、西郷隆盛・大久保利通らの下級武士を取り立てた
水戸の主と 薩摩を頼りで 異人もぶっちめ 叡慮を安んじ
天皇の御代(治世)を実り多くして 下々に愛情を注ぎ 大勢の人が安住できる 良い政治を頼みますぞ
御代を豊に 下をあはれみ 万民安堵の 良策頼りぞ
ホラホラホラの掛声
ホウホイ ホウホイ ホウイ ホウイ
以上の落首は花吹雪隈手迺塵(クマテノチリ) 直訳すると、花吹雪に舞っている、曲がりくねった路地奥に住んでいる取るに足らぬ者 下巻 にのっていたもの
以上、江戸庶民の一人と思われますが、どのような人か全く分らない(落首ですから当然読み人しらず)が、相当のヒネクレ者と思われます。
さて今日のご時勢はバブル以来、政・財界、或は證券界、金融界、来る年も来る年も事件事件が山積しております。
何とか世界水準も考慮に入れて改革してゆこうと、目下新しい世代の生みの苦しみの最中であります。今日は斯様な時代に、その昔の庶民の憤りを紹介した次第であります。
今日、行政改革未だしとも云われております現在でありますので、茲で江戸末期の徳川幕府の改革の一例を挙げて、補足して置きます。
ご承知のように大奥のようなところはシキタリ、シキタリで永年に亘る構造的なムダ使いがあります。
例えば将軍様の客用にカツオ20本料理する時でも、良いものを厳選するんだと称して、100本位買い付けて、良いところ20本を選び出し、後の残り80本は、これは駄目だと云ってドンドン廃棄処分となります。
ところが此の捨てたと称するカツオは役得として、大広敷(大奥の庶務を扱う役人の詰め所)の御台所(オダイドコロ)とその下の賄方がドンドン持って帰ることになっているシキタリであります。これを「宅下げ」と申します。
元々大奥には大量の食料品・日用品類が御用達から調達されますが、これには役人のワイロの値段が入っているので、何もかも大変高くついております。
ワイロ分は価格を上げるか品質を落すかで帳尻を合わせるの、今日の企業献金の裏金処理法と同じであります。此処に文久2年(140年前)、例の皇女(和宮)が大奥に入ってから大奥の出費が毎年4〜5万両増えたと云うので、幕閣からの指図で経費削減が言い渡されたと云う事例が残っております。
ところで時代小説では、よく大奥の美女3000人と云うのがありますが、あれは例の支那の白髪三千丈の類いでありまして、公方様女中分限帳によりますと、実際は正規の女中360人、それに部屋方と称する(上級者の使用人)及び雑用係合わせて700人と申しますから、凡そのところ1000人位であった訳であります。
※さて、その改革の内容は
1. 御台所(ミダイドコロ)(ご正室)の着物は、それまでは毎月新調新調でありましたが、新調でなく見苦しくなければ洗い張りをして着るようにとの要望
2. 上臈と云われるお年寄から御末(オスエ)に至るまで賃金カットされた
御年寄のは切米(キリマイ)と呼ばれる給与100石が半分の50石(429万円)になった。合力金(ボーナスにあたる)と呼ばれる衣裳代120両が60両(720万円)になった。従来の半分 計1,149万円/年 (月給95万円)
3. 湿気払いと病気除けと称して、朝と夕「杉の葉を焚いた」。これがどうしたことか毎日30両。これを廃止
4. 廊下の金網行灯(アンドン)の紙を、毎日張替えたのを月一回にした
5. 年2回の畳替えを年1回にした
6. 和宮のタバコ代一日一斤(3両2分 約42万円)を減量減価、一ヶ月三斤
(10両2分 約126万円)にした
斯くして大奥の年間歳出予算25万両(300億円)を17万両(204億円) (25-17)/25=0.32 約32%減
以上が大奥の経費削減の記録に載っております。
昔話しは以上でございます