6代目庄五郎トーク

第14回だんご寄席 報道に見る昭和二十年の回顧(第一部)

平成15年6月25日(水曜日)

昭和20年の回顧

以前、此の席で戦争中に当店が如何にして戦火を免れたか、いささか武勇伝染みたお話しを申し上げましたが、近世史の中で最も歴史的である可き終戦の年が最も憶い出が深いに拘らず、当時の報道管制のせいか、ほんとうのことがわからなかったり、或はいやな時代と余り記憶に止めたくないせいか、意外に未知な部分があるようであります。そこで本日は報道に表れた20年の1月から本日許された時間の範囲で、恐らく1月〜3月をあらかじめ第一部と区切りまして、話題とします。
此の年の上半期を総括して申しますと、戦局は日増しに悪くなる一方で、米軍の攻撃は硫黄島を陥し、沖縄、そして本土へと迫って参りました。東京は連日のようにB29の襲撃を受け、遂に本土の主要都市は悉く大被害を受けました。顕著な例が、此の荒川区でさえ

大空襲の始まる前の荒川区の人口353,000
終戦になったときの荒川区の人口84,000(23%)四分の一以下

大被害を受けたのであります

(1) 日本開闢以来、第一回の空襲を受けたのは日本広しと雖も此の荒川区であります。少々さかのぼって昭和17年4月18日ドゥリットル中佐指揮による中型爆撃機ノースアメリカンB25一個中隊(16機)は空母ホーネット、空母エンタープライス二隻に依り、本土に近づき、超低空(敵機が来襲したことを電波で感知する計器が作動出来ない超低空・ビルのない時代の2〜300m)で丁度昼前11時30分頃、谷中天王寺方面(南)から尾久方面(北)へ向って、偶然家を一足出た私の頭上を空いっぱいに見える低さで、爆音と共に飛び去りました。(註:太平洋上より千葉県旭防空監視硝(現旭市・旭米の産地)12時10分)私はトッサに警報も出ていないのに何だろう、見慣れない飛行機だなと、超低空ですからアット云う間に通り過ぎたのであります。後姿に垂直尾翼が二つ、アメリカのマークすら見るヒマのない瞬時の出来事。日本にもあんな飛行機があったかなと思うのがセイ一杯だった。やがて尾久方面で爆発音と黒煙が上るのを覚えています。

後に戦後、作家の「吉村昭」君(私のやっているあすなろ会の会員だった・夫人は津村節子)は「アメリカの操縦士の首に結んだ白いマフラーが見えた」と云っておりますが、超低空で飛ぶ飛行機を肉眼で追う早さ、此の時期、マサカ敵国の飛行機が飛ぶことはないと云う信頼感、安堵感から私にはトッサのことで、幻のようにしか見えませんでした。

これは荒川区尾久9丁目にあった旭電化が軍需工場であった為(一説には毒ガスを作っていたとも)本土空襲の第一番の攻撃目標となり、米機はその後西へ向い、名古屋〜大阪〜中国路〜北九州上空より海を渡って上海郊外へ不時着したとの情報を後日聞きました。当区の此の日の損害死者9名重傷38であります。日本全体では死者45名重軽傷400名焼失家屋160戸攻撃を受けた所10数ヶ所(防衛庁の戦史)。

東部軍司令部発表:午後0時30分頃、敵機数方向より京浜地方に来襲せるも我が方の反撃を受け退散中なり。敵機撃墜9機我方損害軽微。

(2) 昭和19年11月1日マリアナ諸島基地より飛来せるB29により、東京に初空襲がありました。(これより先。この年の7月にサイパン島玉砕によりB29の基地がやっと完成した)ので早速やって来た訳です。

(3) 同じく昭和19年12月31日大晦日から元朝にかけて浅草の観音様周辺
が空襲を受け、被害甚大(かつて私どもの家作に居た人形師久保佐四郎氏宅一家全滅–馬道地区)此の空襲は時と所を得て、空襲の恐ろしさを知らしめる上で、都民の心胆を寒からしめる影響(効果)絶大だった訳であります。

(4) これから昭和20年1月20日以降空襲の被害甚大なるもの次の如し。

(5) 昭和20年2月19日〜5編隊

(6) 昭和20年2月25日 130機

(7) 昭和20年2月26日 150機

(8) 昭和20年3月10日 150機 最大、下町を主に東京の過半数を焼失、荒川区のみで死者438重傷658全焼19,000戸。最近のイラクの空襲では最高一回の空襲でせいぜい100人台、何しろ人口密度が違い、マッチ箱みたいな木造が焼けた日本とは違う。

(9) 昭和20年4月13日 150機

(10)昭和20年5月25日 250機

以上が東京が受けた空襲の概要(詳細省略)一口で云えば焼殺された。

当時の敵方の様子は本日お渡ししたアメリカの飛行機が撒いて行ったビラでわかります。当時の宣伝ビラと云っても殆んど正確で、世界情勢を知らないのは日本国民だけだったのであります。

次に此の年1月以降の一般記事について申上げますと、

1/9 米軍がフィリッピンのルソン島北部リンガエン湾から上陸を開始しました。

1/13 三河方面に大地震起る。マグニチュード6.9(7)愛知県渥美半島が震源地。全壊5,500戸 半壊27,000戸 死者1,961
戦時下で国民の士気に影響するので、特に軽微として事実の三分の一の発表に終っている。

1/15 米軍機が伊勢神宮の外宮を襲撃した。

1/31 此の冬は連日の寒さ平年以下で、大正末以来20数年振りの寒波と気象台が発表した。悪い年に悪い条件が重なったのであります。

2/28 戦局の悪化に伴い、敗北的なデマが横行すると云い、所轄警察思想課へ呼出され、説諭(説教)され、更に検事局へ送られ、重ねて説諭されること多し。1月以来検事局へ送致された都内件数40余件。但し後になると此のデマと云うのは真事が洩れて、当局の秘め事(かくし事)が出て来てしまった。つまり暴かれたものが大部分であった。(火の無いところに煙は立たず)

3/5 学徒消防特攻隊が組織され、東京文理大生が大塚署に配属され、防火訓練を実施した、と。実は私もこれを溯ること一ヶ月余の1月半ばから明大勤労隊在東京部隊(本隊は名古屋郊外「常滑」の大同製鋼へ出動中・入営直近な10余名が在京)日本橋消防署へ配属され、一ヶ月訓練を受け、終了証明をもらい、既に御徒町消防署の現場勤務に就かされていた。第一の出動は以前の御徒町三丁目交叉点(昭和通りと松坂屋方面春日通りの交叉点)角の小西酒販店。消防車へ乗って馳せつけ消火活動開始。又、上野駅前・現台東区役所周辺(下町特有の長屋街–下谷万年町近く)爆撃後の火災地で、中風の老人を担ぎ出し、当時の重いシンガーミシンを肩に担ぎ出した記録があります。

2/25 小西酒店が半焼で焼残って、盛に清酒枠箱を担ぎ出した御礼にもらったアイデアルウヰスキー一瓶をラッパ飲みしながら、雪の上野の山を通って日暮里駅上へ出ると(交通杜絶)駅前が全滅状態、既にして焼落ちていたのを憶えています。

3/13 刑務所在監中の囚人を組織した挺身隊が錦糸町附近で3/10大空襲被災者の累積死体(真黒けの山積死体)の処理に出動した。囚人の出動は類例を見ないと云う。次から次へと死体置場に困って、隅田川河畔・上野公園口から鶯谷南口へかけて、そして遂に谷中墓地まで死体が列べられた。

近世国内三大惨事
1. 大正12年9月1日関東大震災死者10万人
2. 昭和20年3月10日東京大空襲死者10万人
3. 昭和20年8月9日広島原爆投下死者20万人
此の教訓は今日まで生きている。いわく、日本人は戦争で再び血を流さない
のようだ。

3/14 本日より東京・大阪・名古屋の国民学校(旧小学校)は決戦教育措置令により、学童疎開に統一された(閣議決定)。後に続く大事な日本人を残さなくてはならない(主旨)。

3/16 小磯国昭首相は天皇(昭和)の特旨(特命)により、本日より爾今大本営会議に列席することになった。これより以前は、首相は門外漢だった。如何に位人身を極めた総理大臣でも天皇の権威と軍部の独裁には抗し切れなかった実情にあった。

3/17 硫黄島の日本軍が玉砕、戦死23,000人
私どもの親戚下谷竹町の山田家でも長男が麻布三聯隊より硫黄島に赴き、戦死をした。第二次大戦ではどちらでも親戚(遠縁を含め)にギセイ者が出ている。

3/26 一家が空腹の為、それに耐えかねた継母(まま母)が病気の娘を殺し、その肉を食べると云う異常(猟奇な)事件が群馬県で発生した。

3/27 神奈川県の兵器工場で学校閉鎖の為、勤労動員中の500名の職場卒業式が行われた。

3/29 召集規則改正で満17〜18才の青年を徴兵検査未済(検査をしないで)その侭、召集を実施すると云う改正法が発令された。

日本の兵役
甲種合格 第一乙種 第2乙種 丙種 丁種
現役兵 第一補充兵 第二補充兵 第二国民兵 兵役免除
  私・近視と体重不足   背が低い体重過重 重度の身体障害者
平時では甲種合格だけが兵役に就いたが、このころは全員召集  

以上のように本日の話しは

◎戦局いよいよ末期状態の国内事情、昭和20年1月〜3月までであります。