6代目庄五郎トーク

第15回だんご寄席 報道に見る昭和二十年の回顧(第二部)

平成15年11月26日(水曜日)

前回6/25の此の席では日本が開闢以来の敗戦国となった昭和20年の1〜2〜3月を辿って報導管制によって包み隠された史実を回顧致しまして、概要次のようなお話をいたしました。

1. 嘗て(S17.4.18)当区荒川区(尾久9丁目〈現東尾久7丁目〉旭電化所在地)が日本で最初の空襲を受けて相応の被害があったこと(死者 9名・重傷38名)
1〜2のあいだに、S18.防空演習(上野山・高射砲)・防空壕(昭和通)・7/1東京府は都制を敷き、東京都となる・学徒動員 S19学童疎開などあり。

2. S19.11.24は偵察を兼ねた空襲で大した被害は無かったが、12月大晦日からS20年元日にかけての大空襲は、下町、特に浅草地区に大きな被害があり、これを皮切りに3月10日の最大の空襲の被害で、半年を経ずして東京の半分、下町の大半が焼失してしまったこと

3. 兵役規則が急遽改変され、昔から厳格で通った(評判だった)身体検査(徴兵検査)も検査なしと、壮丁(若い男)が立って歩ければそれで良しと、尚適齢を20歳から17歳まで下げての日本の徴兵は底を突いた。いよいよ日本も来る所まで来た。末期的症状を呈するに至ったこと

以上で前回は終り、今日は前に引続き、昭和20年4月から申し上げます。

4/1 沖縄本島へ米軍18万3千人上陸開始(日本軍12万)、軍戦略から云っても天王山の決戦場、最後の兵力結集(アメリカとて同じ)

4/5 小磯内閣総辞職〜ソ連邦より「日ソ中立条約不延長」(延長しない・再改定もしない)との通告あり。 それを予期していなかった(対策をしていなかった・傍観しているだけだった)として、責任をとった。

4/7 鈴木貫太郎※内閣成立

※ 2.26事件の時、侍従長兼枢密院顧問官・海軍大将、叛乱軍の襲撃により重傷、好戦派でなく穏健派。のちにソ連の参戦(8/9)によって、かねての主張であった本土の決戦態勢を諦め、主戦派を抑えて、ポツダム宣言受諾を決意し、無条件降伏と総辞職を決行した人。終戦を実行した最後の内閣。陸軍大臣に任命された「阿南惟幾(これちか)」は東京生れ、鈴木貫太郎首相と共にポツダム宣言受諾後、よく抗戦派を慰撫(なぐさめ、さとし)のち、終戦の8/15夜割腹自殺した。

この日(4/7)戦艦「大和」(64000㌧)米軍攻撃により沈没(沖縄沖海戦)

これより先、前年S19・10・24、姉妹艦「武蔵」はフィリッピン海戦で30発の命中弾、 25本の魚雷を受け、9時間の死闘(死にもの狂いの闘い)の結果、沈没(吉村昭『戦艦武蔵』に詳しい)

4/12 米大統領ルーズベルト死去→副大統領トルーマン即刻大統領に昇格。

4/13 B29の爆撃で明治神宮本殿・拝殿炎上、皇居の一部焼失。

4/28 イタリア首相ムッソリーニ自国民により処刑される。縊死(首を吊られる)西部劇同様の絞首刑。61才。

4/30 ドイツ総統ヒトラー、ピストル自殺。61才
四月中にルーズベルト63才、ムッソリーニ61才、ヒトラー61才、同時代・殆んど同年、宿命か?

5/8 トルーマン米大統領が日本に無条件降伏を勧告して来た。3ヶ月後の8/6の広島原爆投下の3ヶ月前に折衝(米・原子力委員会の討議の末、投下のゴーサインが出た。そこで広島の3ヶ月前に交渉があった。報道管制マル秘

5/13 大蔵省では収納官吏」の人手不足を理由に全官吏の俸給を3ヶ月分の前払いをした(一般国民市民の耐乏生活をよそに)一般の会社も社会も出来なかった時代
今の時代には考えられない官尊民卑の表徴てき悪政
一般に秘められた軍官んぼ優遇措置 民主主義の反対の悪政

5/14 B29名古屋市を空襲、名古屋城焼失・鯱鉾(しゃちほこ)の雄(オス)も焼失。雌(メス)はこれより先の疎開で無事、熱田神宮も炎上焼失

5/25 B29第二の東京大空襲(第一は3/10)、残っていた焼失外地域の大半(5万7千戸)焼失。遂に皇居も総炎上

6/8 第87回帝国議会が召集され、鈴木首相が、沖縄に於ける戦闘が極めて不利に展開しているので、重ねて全国民の奮起を要望した。

6/18 沖縄島南端で負傷兵看護に従事した女子師範学校・第一高女49人が全員戦死

6/20 大豆・食用粉・高粱・トウモロコシなど、米の代替食糧が五割を占める(米の半分)

6/21 沖縄の地上戦が終結した。地上戦闘部隊全滅 日本軍戦死109,629
民間人戦死100,000
惨めな大変むごたらしい結末

6/22 天皇(昭和天皇)最高戦争指導者会議で所属構成員に「終戦の意志」を表明したが、議題に上提ではなく、まだ此の段階では軍部の圧力強く、敢て所属構成員にとコトワッているところから拝察するに、嘗て侍従長だった鈴木首相にのみ胸中を明かした程度ではないか。
この時機に勅語を賜れば、これに逆えば逆賊となることを考えれば…(もっとはっきりした意思表明が欲しかった)

6/23 国民義勇兵役法公布 適用範囲 男子15才〜60才
女子17才〜40才

終戦を目前にして泥縄作戦でも間に合わなかったのであります。

6/29 東京の人口は前年の国勢調査の折の3割(320万人)に激減した
と報道、依って此の時分、前年の人口数730万人と算定できる。空襲による決定的打撃が如何にすさまじかったかが窺える。–これがやがて戦後になると都民1000万人になった。

6/30 秋田県の花岡鉱山で中国の捕虜850人が収容所を脱走、出動した軍隊により450人が虐殺されたとは、新聞報道ニュース。

秋田県北部の「大館」と云う駅から北へ4キロにある「花岡」は日本最大の銅、鉛。亜鉛の量産鉱山で有名、明治19年発見以来大規模採掘が行われて来たが、此の日、中国より連行された強制労働に従事させられた中国人(捕虜と一般中国人混成四万人の一部850人が主として食糧事情で蜂起し、軍隊の鎮圧により虐殺同様に殺されたと云うので、数年前中国にいる当時の家族が事件発生の花岡を訪ねて、損害賠償の告訴を起したりしたようだが、多分、嘗て、戦争時の償いは「日中国交樹立」の折、相済みだとの政府声明もあり、その後のイキサツ結果は不明。

7/6 既に空襲は全国に及び、アメリカ軍の上陸予想もある此の時期に、食糧さえあれば最後まで戦えると、焼野が原の東京から集団帰農者第一陣240世帯が北海道を目指して出発するに当り、その壮行会が行われた。(終戦1ヶ月半前の一般世情はほんとうの戦況が分らぬ侭に、まだまだ最後の勝利を信じて、まだまだこんな人もおりました。)

7/8 横浜地検(地方検察庁)は畠の馬鈴薯を盗んだ工員を撲殺(殴り殺す)した自警団を、此の裁判に当って正当防衛に準ずるものとして起訴猶予にした。
食べものがなく、畑の芋を盗んだ若き工員の出来心に一片の同情もなく、戦時非常の折、秩序を守らぬ違法者を厳罰に処した此の頃の世情も又、異常性を呈して居りました。

7/11 食糧配給一割減と去る7/3閣議で決定。大人一日2合1勺(一食7勺)但しこれが規準で、芋・とうもろこし・大豆かす等の代用食糧の混入が次第に多くなって来たのが現実。

7/14 青函連絡船(青森〜函館)翔鳳丸など9隻が米軍の艦載機の攻撃を受けて全隻沈没、青函航路壊滅した。同時にこの時点で日本海軍も全滅したが、国民は未だ疑わずして真実を知らなかった。

7/16 アメリカのニューメキシコ州(50州の内47番目)ネバダ砂漠で世界最初の原子核爆発実験が成功した(広島投下の21日前)。

7/17 此の日、英国のチャーチル、米国のトルーマン、ソ連のスターリン三首脳がドイツで会談した。主として降伏後のドイツの(既に四月中にベルリン・ローマ陥落)処理問題を討議した。その側ら、やがて降伏するであろう日本の降伏条件を決定した。ベルリン郊外のポツダムで行われたので、世に「ポツダム宣言」と云う。

7/18 去る7/10の戦争指導者会議(御前会議)でソ連に対し、終戦への斡旋(仲介・仲立ち)を依頼する為に近衛元首相を派遣することに決定したので、外務省(東郷外相・

7/13 モスクワにいる佐藤駐ソ大使)を通じ、その申込をソ連当局に連絡したが、本日此の申込が拒絶された(シャットアウトとなった)。

7/25 米・英・中3国でポツダム宣言に基く日本の降伏を呼びかける放送があった。

7/28 上記7/25呼掛けに対し、鈴木首相は記者団に対し、ポツダム宣言を黙殺し「飽迄も戦争邁進へ」との談話を発表しました。
既にして戦争指導者会議は降伏への意向であったにも拘らず、政府は交戦続行と夫々終戦処理に異なる姿勢があった為に、遂に原爆が広島に投下されてしまった(九日後のこと)。

8/6 降伏呼掛より2週間目、遂に本日B29により広島に原子爆弾が投下された。死傷20数万人。一局面では世界史上最大の被害を被る結果となった。

8/8 この日ソ連は対日宣戦布告をして来た。

8/9 B29長崎に原爆投下。同時機にソ連軍(北満)(北朝鮮)(樺太)に進攻を開始した。

8/10 御前会議で国体維持を条件にポツダム宣言受諾を極秘裏に決定。

8/11 一方(かたや)、木村情報局総裁は「戦局は最悪なり」とのみ発表。またいっぽう阿南陸相は「死中に活あるを信ず」(死を迎えた状況下にあるけれども、きっと生きる道もあると信じて前進あるのみ)と声明を出す。
最終段階

8/14
(1)御前会議(戦争指導者会議)にてポツダム宣言受諾を正式決定。公文書を以て連合国へ申入れる。
(2)政府は斯く旨を指導層に連絡(斯様になった次第を内外トップレベルに)
(3)天皇戦争終結の詔書を録音し、声明発表の準備をする。

8/15 運命の日 遂にこの日昼
天皇の「終戦の詔勅」の録音が放送された。
鈴木貫太郎内閣総辞職〜
阿南陸相が自刃した。
明けて16日 勤労動員学徒に対し、各方面(名古屋方面常滑・北海道方面・都内–石川島造船所)からの引揚げが通告された。トルーマン米大統領、日本進駐及占領方針を発表

8/17 東久邇宮ナル稔彦王内閣成立・明治天皇の子・M20年生まれ(陸軍大将・初の皇族内閣)。昭和天皇は戦い終った陸海軍人に対し「国家永遠の礎を遺せ」と勅語を賜った。

8/18 内務省より満州国解消の宣言が出された。政府は地方長官に対して占領軍向け性的慰安施設の設置を指令した。終戦三日にして真先に此の方面に配慮至って迅速に行動した。これも国内一般婦女子擁護の為止むなき方便

8/20 灯火管制解除及び信書の検閲停閲停止が指示された。去る15日玉音盤奪取を企てた一部叛乱部隊の鎮圧に当った。田中近衛師団長が、その責任と敗戦の責任をとって自決した。

8/22 ラヂオの天気予報が3年8ヶ月ぶりで復活した。娯楽(映画・演劇)興行の再開許可された。

8/23 陸海軍の復員が開始された。
戦争勃発以来、死傷者68万人全焼失家屋221万戸と発表あり。

8/25 市川房枝らが戦後対策婦人委員会を設置し、婦人参政権獲得の運動を起す。

8/28 連合国先遣部隊、厚木飛行場に到着。
東久邇首相が「全国民総懺悔(ざんげ)」を言明。
懺悔(過去の罪過を悔い改める)

8/30 連合国最高司令官マッカーサー元帥厚木基地に進駐

8/31 米軍の進駐に伴い横浜方面の人心動揺し、婦女子の疎開盛んとなった。