6代目庄五郎トーク

第17回だんご寄席 『城北方面鉄道黎明期』広瀬中佐戦死史話との出会い

平成16年6月23日(水曜日)

前回のだんご寄席では「戦後S20年以降の世情を追って」と話しを進めて参りましたが、偶には異質の話しを間に入れるのも良いのではないかと司催者から申入がありましたので、今日は「鉄道黎明期の一齣」を申上げます。

明治の初め新政府部内で文明開化の先端をゆくものに何を措いても鉄道の便利さを人々に知らせるに勝るものはないと考え、雇い入れたモレル等外人技師に意見を求めたところ、それには短距離の模範鉄道を起すのが最も良いとの判断で、東京〜横浜間が最適であると決まりました。やがて明治2年に英人技師のモレルが技師長に就任して、次のような実行予算上の建言書が出されました。

1.  東京横浜間は20マイルあり、1マイル4万弗の建設費がかかると見積り、建設費合計80万弗、他に車輌器械費15万弗、投資合計95万弗

2.  収入部門では1等乗車料金1弗×一日100人=100弗、3等料金1/3の0.34弗×一日500人として167弗、他に荷物(貨物)料金300弗計一日収入=567弗

3.  年収入206,955弗×1/2=営業諸経費、残額103,478弗、投資95万弗(100万弗に5万弗欠ける)回収額103,478弗(10万余金)、依って投資額の1割以上の利益を挙げられるとの算定

日本に於ける鉄道創業の建設計画は、すべて初代技師長のモレルの手に成ったのでしたが、惜しくもその功を待たず(その功績を顕彰されずに)M4年9月肺患を病んで30才をもって日本で客死(カクシ)いたしました。また同夫人は悲嘆のあまり自ら命を断ったと云うことで、現在横浜の港の見える丘公園の竝びにある外人墓地に夫妻が静かに眠っております。また生前、明治天皇は療養費として、異例の思いやりで、5千両を下賜しております。S37年(40年前) (一両=一円とすると5000円)モレルの墓は鉄道記念物に指定され、時の総裁十河信二氏はその偉業を偲んでねんごろな記念碑を、外人墓地の側に建てております。

日暮里駅西口上本行寺菩提寺
新幹線付帯工事が日暮里駅で始まった頃、珍しく総裁が来店されたことがありました

◎ さて、汐留〜横浜間の工事の詳細については、先に此の席でお話し致しましたので、今日は明治5年9月12日明治天皇親臨の下、開通式典によって茲に我国鉄道の第一頁が開かれ、一日9往復したと旅客列車運行の記録のご紹介のみにて終ります。

◎ さて、ご当地に関係する上野駅の開業は、これよりずーっと後れて、明治17年6月
25日、やはり明治天皇臨幸の下、開業式が行われました。開業式典は当日午前7時10分天皇は上野駅便殿(ご休息所)にお入りになり、午前8時発のお召列車で上野をご発車、10時25分熊谷駅にご到着、便殿に入られた後、線路敷設工事をご覧になられ、次いで10時32分熊谷をご発車、12時に高崎駅へご到着。ご休憩の後、ふたたび午後3時高崎駅ご発車、熊谷駅で20分ご休憩(当時車内便所なし)の後、7時上野駅へお着きになり、それより式典に入り、日本鉄道会社の(首唱発起人)(会社幹事)(100株以上の株主)が参列を許され、勅語を賜りました。以上により高崎線が開業しました。

尚、当時、上野を出た列車は東京ご府内での停車駅は王子・赤羽の二駅でございました。勿論、通過駅もない二駅しか無い時代であります。

又当時、東北線が(山線)と云うのに対し、日立海岸から京浜方面の動力(石炭)の需要から、常磐線を(海岸線)と称して(一般でなく、国鉄当局の用語–明治初めの地図)上野〜入谷〜千住の最短距離敷設案を立てましたが、入谷根岸方面には役人の最も弱い華族様

現根岸二丁目 前田公爵(加賀様)
根岸三丁目 諏方子爵(信濃国)
旧金杉村 牧野伯爵(大久保利通の二男)牧野伸顕家へ養子に行く
根岸一丁目 陸奥伯爵(日清戦争下関講和条約全権)

がお出でになり、此の計画は挫折したことは申し上げたように思いますが、そんな前提で次に此の地、城北地区に於ける鉄道の黎明期は凡そ次のような話しに成るのでございます。

1.  明治20年代、上野から千住・水戸方面へ行く時は、上野駅で乗車しても田端で一旦下車して乗換えねばならなかった。

2.  従って上野〜田端間にはいつも機関車が折返し運転をしておりました。

3.  明治31年になって漸く日暮里〜岩沼間(磐城線)が開通して、東北線(山線)を使わずに海岸線(仙台経由コース)を経て、青森に到達することが出来るようになった。

4.  明治38年4月1日、日暮里・三河島両駅が同日同時開業し、上野で乗車すれば、その侭、土浦・水戸方面へ直通で赴くことが出来るようになりました。

以上ここまで年を追って初期鉄道を申し述べて参りますと、必ず古老に聞いた一節を思い出し附言する(つけ加える)のが常でありました。それは「日暮里駅が開業する一週間程前に旅順港で広瀬中佐が船の爆破に成功したんだ」(旅順港閉塞作戦)の一節であります。以前にも此の話しにふれておりますが、今日は一寸別の話も加わりますので敢ていま一度、重ねて申し上げます。

茲で当時の時代背景を申述べますと、明治37年2月10日日露開戦と同時に海軍は、日本陸軍の将兵及び物資を迅速且つ安全に満州の大連と朝鮮の仁川に揚陸するのが急務でありました。

ところが此の間、貨客船「常陸丸」が朝鮮仁川を目指して航行中、黄海で待構えていたロシア艦隊に奇襲を受け、撃沈されてしまった事件がおこりました。

此の船には東京の陛下のお膝下。近衛師団近衛歩兵第一聯隊1,500人が乗船しておりました。近衛歩兵第一聯隊は我国で最も早い明治七年の編成聯隊で、西南の役に参加した名声高き聯隊でありましたので、此の全滅悲話については琵琶歌で語られ、全国で紅涙を絞られ、問題視され「あの憎っくきロシア艦隊を撃滅せよ」と日本国中の叫びとなりました。

尚、常陸丸と云うのは明治31年製と明治39年製があって、共に長崎の三菱造船所で生れた6,300頓の最新鋭の姉妹船であります。あとの方の常陸丸は大正6年第一次大戦の時、インド洋でドイツの仮装巡洋艦に撃沈されると云う共に因縁深き貨客船であります。

以上の経過によってロシアの艦隊が日本の補給路を襲うのを止める為に、彼等の基地旅順に全艦隊を封じ込める作戦が図られ、吾が海軍東郷平八郎司令官麾下瓜生艦隊に急務の命令が下りました。

そこで、第一回第二回の閉塞作戦の指揮官として戦艦「朝日」の水雷長「広瀬少佐」が選ばれ、攻撃に向ったのであります。

少佐は乗船していた貨物船「福井丸」を爆破させて、旅順港を閉塞し、急遽撤退する間際、行方不明の杉野兵曹長を沈没寸前まで捜し続け、やがてボートに移乗した直後、一発の砲弾に当って、壮烈な最期を遂げたのであります。少佐の部下はボート内に残った少佐の肉片(カケラ)を持帰って、後日、少佐の未亡人に手渡し、未亡人はこれを青山墓地へ埋葬した。以上が此の折の日本海戦史の一齣であります。

ところが此の頃、日本の内地参謀本部では此の作戦の第一回閉塞作戦に参加して、雨霰の被弾を掻い潜って生還し、続いて始った第二回閉塞作戦に再び志願、全作戦を成功裡に終えた広瀬少佐の義勇・尽忠の精神を顕彰し、すぐさま海軍中佐に昇進させ、功二級金鵄勲章を授与し、更に軍神として内外に喧伝して、日本軍の士気を高揚するに努めたのであります。

さて、私は今から数年前、友人のKさんから中国旅順方面の観光旅行の折のエピソードとして、彼は私が一度、軍隊の営門をくぐった者として、きっと関心を惹くであろうと縷々説明をして呉れました。その話しによるとKさんは奥さん同伴で旅順方面を訪れ、先ず最初に二百三高地山麓で、日本の箱根の関所の陣屋に見られるような竹製の駕籠に奥さんを乗せ、途中、山越えも無事に旅順港へ下山した。次にKさんは旅順の街で土地のエージェントに案内されて、日露戦争当時の史蹟を見学した。同伴の案内人によると、明治37年4月1日、一体の日本軍の遺体が旅順港の波間に浮び上った。見れば日本海軍の将校とおぼしき軍服を着ており、ロシア軍はこれを鄭重にお棺に収め、葬列を整えて、その先頭に軍楽隊を配置し、立派に遺体を弔い、埋葬したと云う話し(説明)でありました。この話し、以前にもお話致しました。

私はそれ迄軍神「広瀬中佐」と歌にまで唄われた英雄の最期が一片の肉の固まりで終っている傷ましき悲話を、何か物足らぬ寂しさに感じておりました。

また当時のロシア軍がコザックに代表される粗野で野蛮な人種のみを連想しておりましたところが、日露戦争当時の白系ロシア人は、日本の武士道に対し、彼の地にも騎士道があって、温い人間性を想い、先ず心地よい良い話しと満足感を覚えましたと、
まあ、以上のような話しを前「だんご寄席」のすこし前、本年春先の一日東京都消防第六方面(城北地区)の浅草・日本堤(台東)荒川・尾久(荒川)・足立の各消防署を含む、ガソリンスタンド他危険物業者の集会に招かれ、「荒川四方山話し」と銘打って講話をいたしました。ところが、此の講演終了後、第六方面防火管理部会会長「都築氏」より次の如き発言がありました。

「私は九州大分県竹田市の出身であります。私どもの故郷には広瀬中佐を祀る『竹田神社』がございます。今日は澤野講師より思いも寄らぬ日露戦争旅順の広瀬中佐の話を聞いて、突然で全く驚き大変感激しております。早速本年の年回忌(3月24日)を目標に帰省し、神社総代をやっているので、相当の予算を立てて、更めて慰霊祭を行いたいと思います」

と、本日の話しの奇遇に対する礼を幾重にも云われました。

私もこれ迄、こんな奇縁な出来ごとは初めてでありまして、当日の「荒川アラカルト話し」の中にこんな因縁が秘んでいようとは只驚きでありました。

尚、当時の新聞によれば広瀬中佐の勇敢な壮挙は、日を経る毎に高まり、遂に四十七士の忠臣に続く者と位置づけられ、日露戦争最初の軍神と崇められ、やがて東京のド真中の神田万世橋駅前に大変大きな立派な銅像が建設されました。

これもやがて昭和21年11月マ司令部の命により撤去せられて、片方の足を延ばし、片方を船の舷側に掛けた中佐と杉野兵曹長の銅像を見ることは出来なくなりました。神田数寄屋町の町名の廃止と共になくなった万世の駅の跡に、交通博物館が立っております現今でございます。(終り)