6代目庄五郎トーク

第22回だんご寄席 昭和二十二年の報導記事を追って(其の一)

昭和22年4月〜6月

4/1(火) 本日より6・3・3の新しい学制が発足しました。
今までの国民学校はまた元の戦前の小学校の名称に戻り、新制中学校が発足、高校も男女共学で始まりました。
既に一月以来、全国の町内会・部落会・隣組に向けて、その解散がマ司令部より通達されました。斯くして10年に及ぶ戦時下の生活体制は悉く民主化を妨げる恐れがあるという理由で、茲にすべて廃止されました。2月中旬頃当時の日暮里駅前地区「日暮里四丁目町会」では会長の宮田順弘(のりひろ)氏が私の処に来られて、この度町会が解散するので、町会の全財産(事務用品・什器・机・椅子・天幕の他は記録書類)を引継いで呉れとのお話がありました。斯くして焦土の地に青年会が発足し、22年から29年に及ぶ八年間、最終段階では「日暮里連合青年会」が結成されるに至りましたが、漸く町会が再び発足できる世の中となりましたので、町会の青少年部に吸収合併されたのであります。青年会では焼残った家々でのレコードコンサートから始まり、演劇研究会 1.第2小講堂 菊池寛「父帰る」 2.区役所講堂 ヴォールの「人類の檻」、マラソン大会、三浦半島・奥多摩・大島のハイキング等、今度は戦争に行かない青年達が自由奔放に青春を謳歌しました。

4/3(木) 米政府がマッカーサーに指示して、「対日中間賠償」として全額の30%徴収を即時に実施させました。復興復興で一にも二にも金の要る時代でした。新しい財源を探さねばならないのですから(財閥解体)(非戦災者税)(財産税)(農地解放)に財源を求めざるを得なかったのでしょう。随分非情なことを、と云っても敗けたんですから致し方ありません。

4/5(土) 戦後第一回の知事・市区町村長(町会長を除く)の選挙がマ司令部の命令で実施されました。町会の無い時代でしたが、私共日暮里では、各町の有志は昭和7年荒川区が出来る迄日暮里町長であった「田宮惣左衛門」氏を担ぎ出しましたが、尾久の町長をやった「田中国男」氏に敗れました。当時は戦中のメガホンを持って、昼・夜(提灯)をつけて、連日連呼して歩きましたが、日暮里の町制が大正2年、尾久町の町制が大正11年、十年近い差がある。尾久など日暮里に比べれば田舎だとたかをくくったのが敗因だと覚えております。

4/6(日) 戦後の混乱の裡に出版界で初めて四月号が出たのは、「主婦の友」 「婦人クラブ」「朝日評論」(但しみなザラ紙)のみでありました。それ程、用紙不足は深刻でありました。

4/7(月) 労働基準法が公布(法律が制定され、官報で一般に知らされること)された。その施行(実施)は此の年9/1。その後此の法律49号の労働者保護水準が日本経済に対して余りにも高すぎるので、中小企業では守られない、これを実情に合わせて保護水準を引き下げて改正せよとの意見が、各方面より出されたが、保護水準を下げることは、戦前のように諸外国から非難を再び受けることになると退けられ、改正は見送られた。但し他の2法(労働組合法)(労働関係調整法)は改正されることになった。

4/8(火) 新宿にムーランルージュが再開された。 もともとはフランス・パリにあるミュージックホール又はダンスホールの名称。「赤い風車」と云う意味。日本では昭和の初め、浅草で音楽を含んだ軽演劇カヂノフォーリーが全盛を極めましたが、一方、新宿で生まれたムーランルージュが浅草オペラの連中を迎えて、軽演劇的都会感覚で、その上、風刺的センスもあったので、学生(早稲田大学など)インテリ層の社会人の支持を得て、一世を風靡したけれど、戦後には長続きせず、世代交代した。森繁久弥はここの出身。

4/14(月) 独占禁止法公布(7/20施行) 内容はご存知の通り、アメリカの法に倣ったものであります。初期は割と厳重だったが、漸次改正され、次第に緩和された感あり。現在に至る。

4/17(木) 地方自治法 新憲法に基いて新たに民主化された国と地方公共団体との間の基本的関係を定めた法律第67号・但しS40年迄の間100余に及ぶ改正を重ね、今日に至る。

4/20(日) 日本国新憲法に基く第一次参議院選挙の結果
社会 47 第一党
自由 39 第二党
民主 29 第三党
他(略) 35
合計 150

4/25(金) 明治憲法に基く第二十三回衆議院選挙の結果  
社会 143 第一党
自由 131 第二党
民主 124 第三党
他(略) 68
立候補者 1588人 当選者計 466

4/26(土) 飯田市で大火 4,000戸焼失
飯田市 静岡県の天竜川を溯った所にある長野県の小都市

4/29(火) 茨城県那珂湊で大火 1,500戸焼失
那珂湊 水戸の近傍 太平洋に面した漁港の町
東京都内では明治維新〜昭和初期
大正14年3月18日 世に日暮里の大火と言う 2,000戸焼失
                                現東日暮里1〜3丁目

5/3(土) 日本国憲法施行 前年11/3公布
 最高裁判所発足 旧明治憲法下では大審院

5/6(火) 天皇マッカーサーをご訪問 S22・5・6 第三次
       第一次 20・9・27  終戦の年
       第二次 21・5・31  前年

5/20(火)第一回日本国特別国会召集 日本国新憲法による
                            衆議院及び参議院

5/23(金)簡易裁判所開設 全国557ヶ所開設(旧 区裁判所)

5/31(土)敗戦から此の日までに63万8,048戸が建築された これは住宅を含む戦災焼失建物の26%に相当する。終戦より20ヶ月にして焦土の復興が進んだのは、その昔からの日本人の勤勉さがあったからであります。

6/1(月) 前月5/20吉田内閣の総辞職に伴い片山内閣成立。三党の連立
第一党 社会党 片山哲総裁〜首相
第二党 民主党 芦田均総裁〜外相
第三党 国民協同党 三木武夫総裁〜逓信相
 政局はかくて収拾した。

6/3(火) 文部省は学校における(宮城遥拝)(天皇陛下万歳)等天皇神聖化的表現の停止に付通達した。

6/7(土) この度塚田正夫将棋八段が、それまで十年間名人位を維持していた木村義雄氏を破り、新に第六期名人となった。

6/9(月) この度新聞全国紙に新聞小説の連載が再開され、早速朝日新聞に石坂洋次郎作「青い山脈」が掲載され、評判となった。

6/16(月)鎌倉の海のカーニバルが10年ぶりに復活。
S12年日支事変以来中止されていたカーニバルが10年目にして復活した。此の年7/1に当って私も由比ヶ浜に海の家「オアシス・オブ・カマクラ」とローマ字縦書の塔を建て、店間口四間奥行九間36坪丸太鉄板貼りの海の家でした。際物(きわもの)商売。一日400人@50円計20,000円。
ご承知のように浜辺は国家のものでありますが、いずこの海辺も漁業権があるので此の年一年目の賃借料として9万円を五木田という組合長に払った。

6/18(水)前年21年買出しの婦人らに食糧を世話すると話しかけ、人妻や娘を芝公園などに連れ込み、10件の婦女暴行(強姦)殺人を犯した「小平義雄」の死刑の判決があった。

6/24(火)前年S21年度の女性が襲われた犯罪は、2,695件と警視庁の発表があった。戦後の荒廃期の殺伐とした時代を反映する。

6/30(月)戦後流行したシラミ媒介による発疹チフス患者は都内1万人を超え、死者914名に及ぶ。最近流行した新型肺炎(サーズ)の集計数と(全世界)殆んど同数であった。

少々時間があるようでございますのでもうしばらく続けます。

昭和22年の報導記事を追って
(其の二)昭和22年7月〜8月

7/1(火) 既に6/14独占禁止法が公布され、此の法律の具体的実現の為の不当に景品を出すことを防止する
  不当に表示をすることを防止する 等を業務とする公正取引委員会が本日発足いたしました(法律的には施行した)。

7/4(金) 政府(片山内閣)は「国家財政も一般企業財政も一般家庭の家計も総べて赤字と発表。 此の時期に発表したその理由は、
 米本国よりの指図でマ司令部を通じてアメリカに対する賠償額の三分の一を取り立てられたので、敢て実情(窮状)を発表したものと思われます。

7/5(土) N・H・K放送ドラマ「鐘の鳴る丘」が放送開始された。
「緑の丘の赤い屋根/とんがり帽子の時計台」と主題歌が謡われるこの連続放送は、実に790回を数える長期記録となった。

7/6(日) 国鉄旅客運賃が3.5倍値上げされた。長い間親方日の丸のズサン経営の国鉄が、遂に赤字赤字で身動きが出来なくなり、一挙に値上げを断行した。
                  貧乏(普通の貧しさ)窮乏(ひどく貧しい)

7/9(水) 三笠宮妃殿下の厳父「高木元子爵」が窮乏から自殺された。
 華族の没落が各所で悲劇を生んだ。私どもの店でも谷中墓地の整理をなさる元華族様があった。身の回りの財産整理をなさったが、残るは墳墓の地だけだったとか。戦後2年没落は未だ序の口でS30年台40年台まで続いた。 さすがに徳川宗家ご本家は整理の対象にならず、現状維持。

7/15(火)米国少年赤十字団一行が日本の学童向けオモチャ5万包と学用品45㌧のみやげを持って横浜港へ入港した。(現在の日本が低開発国や戦争被災地へ救援するように、日本も同じように救援される時代があったと回想される。

7/16(水)東京のド真ん中の新橋マーケットの利権にからむ争いで、拳銃・機関銃の撃ち合いで新橋戦争とまで云われた時の、一方の旗頭・関東松田組の女親分松田芳子が組の解散を決断したので、残るは新宿の尾津組の時代となった。

7/18(金)西田幾多郎(既にS20・6月死去)加賀出身・帝大卒、京大教授、S15年文化勲章受賞、この先生カント等諸外国の哲学を主体的に独自の(西田哲学)の独創的体系を築いたので高名。著作「善の研究」は青年知識層に大きな影響を与え、その門下から多数の人材を世に出した。死去丸二年経ったこの日「全集第一巻」が発売されるに当り、岩波書店の前に数百人の徹夜する行列が出来た。戦争が終って新しい世の中に西田哲学が如何に読まれたでありましょうか。人気はそこにあったと思われます。

7/20(日)配給の遅れ(遅配)東京で25日、北海道で90日となり、深刻化した。

7/21(月)軍国調の銅像とりこわしの第一号として、万世橋の「広瀬中佐と杉野兵曹長」が消去された。杉山元帥(参謀本部)田中大将(山口県)も。
 ただし小松宮(上野公園)馬上豊か、侵略戦争に関係なしと残存。

7/24(木)各章次官会議で官庁の半ドン(土曜半休)が、国家窮乏の折から廃止された。ところが、その後豊かになり一等国並みに。現在週休二日、土日連休、ご承知の通り。

7/26(土)銀座で坪4万円の土地が飛ぶように売れた。10坪40万、100坪400万。銀座でも未だビル化しない時代。普通契約(借地権)

7/28(月)滝沢修、森雅之、宇野重吉らが民衆芸術劇場(民芸)を結成。

7/30(水)幸田露伴死去、80歳。嘗て谷中五重塔の西、ぎんなん横丁奥に寓居。「風流佛」で一挙デビュー。谷中五重塔建立にまつわる大工十兵衛奮闘記の著述「五重塔」。正岡子規はこの憧れの先輩に小説を見てもらいたくて、自作「月の都」を携えて訪問したが、評価して貰えなかった。幸田露伴は当時尾崎紅葉と人気を二分した。S12年、第一回文化勲章受賞者。

8/1(金) 早大仏文卒「田村泰次郎」の小説「肉体の門」が一躍世に表われ、流行作家となった。戦後の民主主義の波に乗って、自由奔放な肉体的愛情を芸術的に構成し、表現したエロチシズムが大当たりに当って、劇化された新宿帝都座初演の「肉体の門」は以後都内各所で700余回続演された。

8/5(火) 農林省は食糧が全国的に遅配している現状で、米集めに苦慮した。
 そこで落語家を農村に派遣して慰安の傍ら。これまでは良いがその先、但し国家財政乏しき折柄、入場料一名米4合をとったとは。

8/11(月)このところ両議院(衆・参)で(姦通罪)の是非(良し悪し)について激しく議論されたが、参議院は遂に広く公聴会を開くに至った。
 ご承知のように、古く我国では、妻が夫以外の男性と通じた時、本人である妻も相手の男も罰せられた。ところが夫が妻以外の女性と通じても、相手が人妻でない限りは罰せられない建前であったが、これが新憲法で云うところの男女平等・夫婦同権に反すると云う次第で、遂に(姦通罪廃止論)が勝を制して、ここに刑法改正が行われ、爾来姦通は罪にならないことになった。

8/14(木)G・H・Qが対日借款5億ドルを許可した。これによって政府はやっと輸出入の回転資金を設定することが出来た。当時はこんな国家財政だったのであります。

8/17(日)片山首相が「経済危機突破の道」と題する国民に訴える書を発表した。
 このように今は昔の夢物語と忘れられてしまいましたが、戦争直後の荒廃期からの立ち上がりには、政府も国民も共に苦労の連続であったことを回想します。この苦難の道を辿って今日があるのであります。

以下口演は第二十三回(平成十八年六月二十八日)において

8/22(金)大蔵省は義務教育6・3制の予算が採れず、遂に「宝くじ」を実施して、これで補うことになった。(こんな情けない時代もあった)

8/23(土)G・H・Qは追放教員11万人の名を公表した。全員赤化思想教員であった。当時アメリカの国是に従った。

8/27(水)都営住宅のクジ引き申込会で350戸に対し、57,663人の申込(競争率実に165倍)。顕著な住宅難の風潮であります。

8/30(土)衆議院本会議場で会期延長を廻って大荒れ。議場中央で遂につかみ合いの暴力沙汰に及んだ。(嘗て我国では見られなかった。民主主義になって初めての議員闘争が見られた)

これより「阿部定事件」今(H18)より59年前の昭和22年を溯ること11年、59+11=70年前の「お定事件」

9/4(木)昔「明治一代女」と云う浜町河岸を舞台にした事件がありました。
 意地も人情も浮世に勝てぬ、みんなはかない水の泡沫(あわ) 流行歌
 昭和時代の好色事件 嘗て聞いたことの無い、その方面第一番の事件、その主人公「お定」が過去の罪を悔い改めて告白する本「昭和好色一代女–お定色ざんげ」が、この日出版されました。
 これに対して、懺悔の主人公「阿部定」さんが出版社を名誉毀損で告訴いたしました。(私は色に狂った稀代の悪女ではない。実は命を賭けた崇高な愛情の発露で、止むに止まれぬ行状だったのだ)これが定さんの言い分。

 さて11年の昔に戻って事件を検証してみますと
 S11年5月18日荒川区尾久の待合「満佐喜」で中野の料理店主石田吉蔵(41歳)が同店の使用人阿部定(31歳)と三週間も同所に居続け、夜となく昼となくからみ合って、とどの詰りは「お定」が「吉蔵」の首を絞め、生死をかけてアクメを求め、遂に相手を死に至らしめたのち、相手の局所を切り取った事件。この尋問で聞取った調書(検事調書)は以上の如くでありまして、検事は最初ワイセツ的犯罪ときめつけておりましたが、しかし公判廷における彼女の供述は大変見事な口説振りで「命をかけた崇高な恋愛の結果、止むに止まれず執念を燃やす人は私以外にも世の中には沢山居るのではないか、ただ私は実行してしまいましたが、決して色気違いではございません」と事のイキサツを理路整然と検事と判事の前で語りました。後日世上の論評でも「お定は決して愚かではない」と同情論すら出る始末でありました。
?栃木刑務所に収監され、刑期6年。S16年出獄したが、間も無く雑誌社のゴシップ記事に遭遇し、抗議した次第でありました。
 当時私の聞いた話では、刑務所を出てから世話をする人がいて、谷中真島町(現谷中2丁目)いわゆる赤字坂上「緑風園」(庭のある高級中華料亭/当時まだ少なかった 大名時計博物館・渡辺銀行頭取〜渡辺治右衛門邸跡)の仲居として再生に努めた。
 次でS30年代、西浅草1丁目本願寺裏大衆酒場「菊水」の女中。此の時分S35年頃日暮里史談会主催の「谷中霊園案内」(当時200名参加)に参加。
 既に此の時、60歳位と覚えております。
 従って昭和の終焉と共に既に鬼籍に入ったと想像されますが如何でしょう。生存すれば現在101歳。

9/14(日)キャスリーン台風来襲で、利根川水域大洪水。葛飾区・江戸川区全域水浸しいたしまして、激流南下。戦前戦後を通じて最大の台風
1. 死者 2,247人
2. 家屋全壊流失 6,000戸
3. 都内浸水 84,000戸
4. 被災者 378,000人
5. 米軍の救助艇出動、パラシュート部隊出動し食糧補給
6. 天皇災害地視察

 近年毎年台風等で風害・水害が全国何処かで発生しているが、吾々の身近の関東地方、特に東京は全国一の安全地帯だった。
 然るに此のS22・9・14の台風による災害は稀に見る大災害(M43以来・註)で、為に国土局は応急対策費1億円を計上(現在なら1千億か)。
 註:M43・8月、荒川・隅田川の水害。死者45人、行方不明7人、浸水戸数19万戸。このため、M44年〜S5年 20年の年月を費やして荒川放水路開削工事。T5年岩淵水門建設開始。工事竣工S5年。北千住駅東口一帯(旭町・日の出町・千住柳原)は、この放水路工事による元小菅村・綾瀬村の移住者

江戸の水害と江戸400年前の町づくり
尤も江戸の水害は昔からで、家康が天正18年8月1日江戸城に入城の後、最初の仕事は関東一円の水害対策で、先ず阪東太郎(大利根川)を古利根と新利根に分離することから始まった。次で神田の台地の土を大八車と舟で運んで、日比谷公園辺りを埋立て、次に前島と云われた日本橋辺りの地盛り(盛土)をした。かくして江戸の町は出来た。

以上 H18・2月22日残り分終り